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概要[編集]機械式地震計による地震観測が開始された以降であり、1892年に設立された震災予防調査会により詳細な被害調査が行われている。東京の下町と神奈川県横浜市、川崎市を中心に被害をもたらした。 理科大学(東京帝国大学理学部)地震学教室によれば、余震が少なく、6月21日および6月22日には弱震が1回ずつ、微震が数回程度あっただけだった[1]。また、10月7日に発生した東京湾の地震 M 6.7、深さ100kmは最大余震の可能性が指摘されている[2]。 被害[編集]被害の中心は東京から横浜にかけての東京湾岸で、建物の全半壊 130棟(東京府 90棟、神奈川県 40棟)、死者 31人(東京市 24人、横浜市 4人、橘樹郡 3人)、負傷者157人。建物の被害は洋風建築の煉瓦建造物の被害が多く、煙突の損壊が目立った[3]事から、煙突地震の異名もある[4]。 区別で見ると、深川区で死者9人、芝区で即死者2人など。また京橋区築地などでも激しい被害があった[5]。 地震に関する記述[編集]樋口一葉の「水の上日記」[7]に、この地震の被害が聞き書きの形で紹介されている。それによると、四谷の松平家では床の間の壁が崩落、土蔵の腰巻が崩れるという被害があったという。また三田のほうでは液状化現象が発生し、噴砂があったという。また、地震同日22時頃に余震があったとも記録されている。 ベルツの日記の6月22日(原文のまま)にも 石造やれんが造りの家屋の被害がひどく、木骨家屋の被害は少なく、「住宅建築上、一つの教訓」になると思うと記している。[8]。 谷崎潤一郎の「幼少時代」には、東京の下町の自宅にいた谷崎が被災した経験が記載されている。彼の地震恐怖症の元になったと言われる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.01.04 06:36:53
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