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2007.04.27
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カテゴリ:カテゴリ未分類
久しぶりに渡辺淳一の「神々の夕映え」を読み返してみた。学生時代に読んでから20年以上経つ。
渡辺淳一といえば、「失楽園」や「愛の流刑地」など、もっぱら性愛を追求した作品で有名である。ヘタしたらちょっと高尚なエロ小説作家と思っている人もいるんじゃないだろうか?
しかし昔の作品の中には、医師としての経験を元に、生の尊厳や安楽死を真正面から捉えたかなり重いものもある。その中でもとりわけ「神々の夕映え」は、学生時代に読んで以来私の頭の片隅に常にあったような気がする。

医者は好むと好まざるに関わらず、人の生き死にに深く関わる。患者や家族の苦しみを直に見ざるをえない。そして治る病気がいかに少ないか、回復不可能な病気に対して医学がいかに無力であるかを知っている。

「いのちを大切に」というようなわかりやすいヒューマニズムを単純に受け入れることでは諒解できない問題が目の前に横たわっている。

「神々の夕映え」では、渡辺氏は敢えてヒューマニズムを排した冷徹な視点で問題を突きつけている。

主人公である医師、村中繁夫は中年のベテラン外科医で、消極的な安楽死賛成論者として描かれている。安楽死を積極的に行うだけの覚悟は無いが、植物人間や癌末期患者の延命には否定的で、自分が泥さえかぶらなければ安楽死させる方がいいと思っている。小説の中ではかなりニヒルな医師として描かれてはいるが、おそらくこのあたりが大方の医師の考え方に近いものかもしれない。
村中はかつて先天的に大きなハンディキャップを負っている男の子の主治医をしたことがあった。彼は母親とのやりとりの中で、暗に彼女が我が子の死を願っていることを読み取ってしまう。男の子が手術中に死の淵にあるとき、村中は母親の願いどおりこのまま死なせてやろうと一瞬思うが、「意図的に死なせた」という心の十字架を背負うだけの勇気が無く、思い直して治療し救命した。その後も男の子は重い障害を持ったまま生き延びていく。母の願いを知っていながら、自分の手を汚すことができなかったことに彼はずっと罪悪感を引きずりながら、その後病院を変わり医師を続ける。
そんな思いの中、子宮癌末期患者に対して彼は死期を早めることを承知で麻薬の過量投与を行う。苦しむ妻の姿を見ていられない夫に安楽死の希望があることを察知して、その思いに応えたのである。
さらには植物状態で長年寝たきりになっている女性患者が夫に絞殺される。妻が病に倒れて以来夫は生活保護を受けながら決して献身的とは言えないさぼりがちの看病を続けた末に、こんなことがいつまで続くんだと思いあまって殺してしまう。村中はこれをも容認してしまい、ニセの死亡診断書を書いて夫の罪を隠してしまう。
医師が薬物を使ってそれとなく患者の死期を早めても罪にならないのに、家族が首を絞めて殺せば殺人罪になる。しかし事の本質にそれほどの差があるだろうか?というのが彼の思いである。夫は罪を見逃してくれた村中に感謝するどころか、病院から去るときに「私に手を下させるなんて先生はずるい」という意味の言葉を残していく。
その後小さい町の病院の話なので、「殺人者をかばった」と町中の噂になり、村中は病院を辞めることを考える。
これで物語の95%が終わる。読んでいて正直かなり暗澹たる気持ちになる。
しかし、ここまではこの後に続く10ページ足らずの、最後の展開へのイントロのようなものだ。

麻薬過量投与により末期癌患者を死なせたことや、植物状態の妻を殺した夫を容認したのは、彼の心の中に、5年前の男の子のことがひっかかっていたからだ。
彼は、母親と男の子に会いに行くことを決意する。もし再会して母親が「なぜ先生はあの時息子を殺してくれなかったんですか」と責めてくれれば、彼が今の病院で取った行動は正当化される。おそらく彼はそれを期待して、遠くに住んでいる親子を訪ねたのだ。
ところが5年ぶりに会ってみると、確かにあの時我が子の死を望んだ母親が、今は息子の介護をしながらむしろ自分が息子に生かされていると感じているのである。毎年執拗に届く、変形した子どもの手で書かせたゆがんだ文字の年賀状は、恨みを持って書かれたものではなく、本当に感謝の意味で送られていたことを村中は知る。
帰りのバスの車窓からみた神々しいまでの夕日の中に、彼は人間のこざかしい意志など吹き飛ぶような、超越したものを感じ取る。そこでこの小説は終わる。

産科をやっていると、胎児の先天異常が妊娠中にわかってしまうことがある。生まれても絶対生存不可能な疾患と、ごく軽いハンディキャップはあるが長期生存が可能な疾患との間にさまざま程度の疾患がある。どこで線を引いて妊娠の継続を断念すべきか悩むことが多い。
ややもすると自分は僭越な判断をしているのでは無いかと自問自答することがある。その時「人は与えられた生をただ生きる。医師ごときが、人の生きる価値を判断することなどおこがましい。」という思いが、この小説のラストシーンとともに頭に浮かんでくる。
神々の夕映え





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Last updated  2007.04.28 01:36:29
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