58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。
58:9 あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら
58:10 飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。
58:11 主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
(イザヤ書58:6~10)
![450-20060121165352754.JPG](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/33/0000261833/15/imgdee08d52l2sbn3.jpeg)
今日の箇所は、長いのだけれど、あえて6節から11節をあげてみます。断食は、神の前に行う善行である。イスラムでもユダヤ教でもキリスト教でも行われている。この時代、戒律を守ることは神の命令である。もっとも大切なことであった。しかしこの断食という善行に比べ、さらにもっと大切なものがある、それは何かを、イザヤを通して全能なる神は、語っている。断食の行為に対して、同胞への愛、隣人愛を説いているのである。ここで注意しなければならないのは、この言葉が語られているのが、人道主義や人権がさかんに言われる現代ではない。精神主義が、いまだ開かれていない古代のオリエント世界においてなのである。この高い倫理性、現代においても決して色あせない表現は、まったく驚くべきことである。そう考えると、この旧約聖書に出てくる神とはいったいどんな存在なのか、ただ驚かざる得ないのである。
(人気ブログランキングに参加しています。
ぜひ下のバナーをクリックをお願いします。)
人気blogランキングへ