プロローグ●Crooks●‐プロローグ‐ 宮崎商会の会長室には、会長と彼の秘書、それに4人の人物がいた。 そしてここにいるすべての人間は今、ある1枚の油絵を前にしている。 「実に素晴らしい!これこそ最高傑作、世界の宝ですよ!」 4人のうちの一人、この会社と提携しているノーマンコーポレーションの重役、沢田武人が、大きな体を揺らして賛辞を述べた。いかにもコレステロール値の高そうな肉付きの体で、常に脂汗をかいている。 「そうですわ―――」 それにならってまず口を開いたのは、宝石商の尾形サキであった。明るいネイビーブルーのスーツと、それにぴったり合ったディープレッドの口紅。胸元には趣味のいいダイヤのネックレスをしている。そのセンスの光る格好は、彼女のすらりとした白く長い脚をさらに長く見せていた。 彼女の言葉を受けて、宮崎商会の現社長である宮崎正巳がこの絵の歴史を語り始めた。黒ぶちの四角いめがねをかけて、いつも大きな脅威にさらされているかのように目を泳がせているのがこの男だ。社長という肩書きを持ってはいるが、父である会長が実質的な権力を譲らなかったため、彼はただの形式的な存在になってしまっている。 宮崎会長は熱弁を振るう息子をちらりと見ただけで、けむたそうに顔をそむけた。この食品業界の重鎮はすでにかなりの老齢であり、髪の毛は見事に真っ白、彼の体の一部とも思えるほどになじんだ4つボタンのスーツ姿で、ワシの飾りの付いたべっこう色の杖を突いている。そしてその目には誰が見ても怖気づくような威厳がたたえられ、猛禽類や肉食獣がもつのと同様な光が放たれている。 会長お付の秘書、三瀬りつこは少しくすんだえんじ色のスーツを着て、薄いアルミフレームのめがねをかけていた。彼女はいつものように目立たないポジションに自分の居場所を決め、社長の話に耳を傾けている。 最後はプロサッカー選手の多賀城茂。今シーズンの得点王に名乗りを上げるほどのプレーヤ。端正な顔立ちもあいまって、ファンになる女性が後をたたない、日本でも五本の指に入る人気選手である。彼がこの会社の上部の人間と関わるようになったきっかけはというと、この会社が発売している清涼飲料のコマーシャルに彼が出演したことであった。今のいでたちは黒のジーンズにブレザーとTシャツ。この部屋にいる人物の中では最もラフな印象を与えた。 彼がここに来たのはただの興味本位。彼以外の客人も、どんな理由を述べていても本当のところはそうに違いない。だが、いや、だからこそ多賀城は、今展開されている話題には全く興味が無かった。こんな下らないうんちく―――どこの国の何派の何という作家の作品で、何時代にどこで描かれたのか、そしてその作家はどんな生涯を送り、この作品にはどんな思いが込められているか・・・などといった話を聞くために来たのではない。 彼は一人絵の前を離れ、会長室の南の窓に向かった。窓といっても、壁にはまっているアルミサッシのこぢんまりしたものを想像してはいけない。その南の壁面全体がガラス張りになっている、いわばそれはガラスの壁なのである。そのため、ここからは大都会を見下ろす最高かつスリリングなパノラマを望むことができる。眼下には200メートルを越える高層ビルがひしめき合い、その林立する直方体の集合は夜の闇の中で無数の光の粒を撒き散らしていた。 タバコに火をつけると、彼はおもむろに口を開いた。 そしてこれこそが、彼がここに来た理由だった。 「で―――・・・どうしてその絵を盗もうって言うんですかね?その・・・自称大泥棒とやらは」 巨大なビルは鋼鉄の砦と化していた。このビルのすべてのフロアではそれぞれ何十人もの警官たちが来るべき敵を待ち構えていた。周囲のビルにも狙撃手たちが潜み、火の刃を構えて獲物を待っている。上空では千里眼のドラゴン―――ヘリコプターが大きな羽音を立ててプロペラを回転させ、ビルの壁面に光の帯を照射している。すべてのフロアに明かりが点けられ完全に覚醒しているのは今、オフィス街ではこのビルただ1つだけだった。 宮崎商会の会長室に飾られている絵画を盗むという予告状が送られてきたのは3日前だった。そしてその予告状は絵の持ち主の会長以外にも、警察庁、テレビ局、ラジオ局、新聞社などありとあらゆる機関に対しても送られていた。 近頃どういうわけか愉快犯的な犯罪者が増えている。今回もその一つに違いない。金を得るためでも復讐でもなく、”盗む”ということを楽しむがためにのみ行われる窃盗。そのために彼らは、警察や世間をあざ笑うかのような演出を執拗なまでにほどこす。このような犯罪に腹を据えかねていた警察は、今回でこのような忌々しい犯罪に終止符を打つべく、この標的となったビルを大掛かりに何重にも包囲した。 ビルの中には警備をする警官たちと最上階の会長室にいる6人のほかには、誰もいない。1000人近くいる社員さえも今日に限っては完璧に締め出され、出入りするものも何であっても完全に把握され、少しでも怪しいと判別されれば排除されている・・・――――はずだった。 「ミャァウ!」 185階を見回っていた1人の警官は驚いて振り返った。 慌ててその方向に顔を向けると、そこにいたのは、1匹の猫。よく見れば三毛猫で、目を緑色にくるくる光らせながらエジプト彫刻の縮小版の様に行儀よく座っている。 「ね、猫ぉ?」 警官は間抜けな声を出した。 おかげで三毛猫は驚いて、ドアの開いたままになっていた近くの部屋に飛び込んだ。首に鈴でも付いていたのだろう。ちりちりという音が響いた。 万全の警備のはずが、これは一大事だ。こいつが例の泥棒じゃあるまいし、どうにか外に出さなくては・・・。 警官も、猫を追って部屋の中に入った。驚き呆れて大きなため息をつきながらも、彼は猫が怖がって逃げないように、慎重に床の上を這って歩いた。視線はデスクや壁の表面をあてもなく滑っていく。相変わらずどこかで鈴の音はするのに、猫の姿は全く見えない。 ―――何か、エサでもあったらおびき寄せられるのに。 ふとそう思って彼は自分のズボンのポケットを探ってみた。 それはなかなかのアイデアであった。 なんと運のいいことか、昨日ビールと一緒に食べようと買っておいた細割きスルメイカの小袋が入っているではないか! 「何で俺はこんなものを持っているんだ」と自問してみたところで意味は無い。そう考えるより前に、彼はその袋を開けてかぐわしい香りを放つスルメイカを自分の目の前にかざした。 「よー・・し、来いよー」 しばらくすると鈴の音が止み、それからその音は、控えめに近づいてきた。 「しかし、狂気の沙汰だな」 宮崎会長は古めかしいパイプから煙を吐き出した。 「ええ、全くけしからんことです!こんなものを送ってくるなんて―――」 会長の言葉に賛同して社長が声を上げ、例の予告状を手に取った。 しかし、会長はその言葉をさえぎった。 「こんなものを送ってきた奴もそうだが、これに挑発されて大騒ぎするばか者どももそうだと言っとるんだ。我が社のセキュリティーシステムはそんじゃそこらのものとは比べ物にならんほど素晴らしいものだというのに、それを信用できん人間がおるのだから呆れたもんだ・・・」 社長は会長の突き刺すような視線を受けて、ずれためがねをオドオドと押し上げた。 確かに、このビルのセキュリティーが一級品だということは誰の耳にも入っていた。 「三瀬君、警察の方と連絡を取って、下は今どんな状況になっているのか聞いてくれないか?」 社長は少々裏返った声で秘書に言った。彼女はちょうどコーヒーを入れ終わったところらしく、尾形サキと多賀城茂が座っている会長室のど真ん中のソファのそばに立っていた。 社長が話をそらすために取ったあからさまな行動に会長は、背を向けている社長に軽蔑のまなざしを射た。それに、勝手に自分の秘書を使われるのも気に食わない。 秘書は分かりましたと返事をすると、この部屋の隣にある秘書室―――そこが警察の司令室となっている―――につながるドアに消えた。 「フン・・・」 会長は鼻を鳴らした。 「・・・い、いやぁ・・・しかし、こんな素晴らしいものを近くで拝見できるとは幸せですよ!」 重い空気を察してか、沢田が甲高い声で喋りはじめた。彼は先ほどからずっと同じように絵の前にはりついている。もうすでにその時には、その絵の前数平方メートルが彼の居場所になり、彼はそこを自分のテリトリーとしていた。ときおりルーペまで取り出し、絵の表面を隅から隅まで念入りに見ている。いや、見ているというよりは、調べていると言ったほうが似つかわしい。 「沢田サン」 尾形サキがこつこつとハイヒールの音を立てながら沢田の側までやってきた。 「そんなに熱心に見られて、たいそうその絵がお気に入りのようですわね」 サキはにこやかな表情で言った。 沢田は少し驚いたように彼女を見た。かなりの美人である。彼の心拍数は増え、脳みその中を走るどこかの毛細血管が血流の増加によって危険なレベルに近づいていることだろう。沢田はハンカチを取り出して汗をぬぐいながら言った。 「もちろん!私はこの時代の作品が大好きでしてね。それに、こんな名画にはなかなかお目にかかれませんから。どうです、この揺れる光線の具合は?影の深さは?素晴らしいでしょう?」 「ええ、本当に。素晴らしいですわね」 サキの表情は変わらない。だが、絵を見つめてから沢田の顔を向いたとき、彼女の目の端にわずかな影が浮かんだ。 「でも・・・もしかして、あなたが例の大ドロボウさんじゃありませんの?」 一瞬、沢田の顔は笑顔を作ったまま固まった。メドゥーサと目が合ってしまった不幸な旅人。 サキは彼の顔をじっと見つめていたが、また笑みを浮かべた。 呪縛を解かれた沢田は、大きく息を吐きながら引きつったような笑い声を上げた。 「ま、まさか!サキさんも冗談が好きだなぁ・・・!」 沢田の広い額からは、よりいっそう大量の汗が噴出してきた。 サキは口元に笑みを浮かべたまま、絵の前から離れた。 「だから苦手なんだよ、こういう人種は・・・」 多賀城はコーヒーを飲みながらぼそりとつぶやいた。 密かに彼は数分前からずっと、こんなところに来るんじゃなかったと思っていた。これなら、家かジムでトレーニングでもしていればよかった。彼がため息をついて顔をあげると、そこにはサキの顔があった。 完全に目が合ってしまった。メドゥーサめ、また餌食を探しているな?彼は首をすくめてそっぽを向いた。これは偶然ではなく、必然だ。 サキはすました顔をして彼の向かいのソファに座り、コーヒーのカップを手に取った。 多賀城がちらりと彼女のほうに視線を向けると、彼女はすでに彼のことを見ていた。 「・・・どうも」 具合が悪くなって、多賀城の口から勝手に言葉が漏れた。 だが彼女は、「あら、どうしたの」というふうに首をかしげてみせただけだった。 「猫ぉ?」 180階から185階の警備を取り仕切っている主任警官が言った。 「はい!そうです主任」 目の前には、猫を発見し捕まえた若い警官がいた。捕まえるのに手間取ったのか、青い制服が白くほこりにまみれている。 「何でまた・・・」 主任は顔をしかめて天井を仰いだ。 本庁からは、何としても標的となっている絵を守り、犯人を捕らえろという命令が出ている。それに、何であっても警備の者以外はこのビルに入れてはならない、と非常にきびしく言われていた。何であっても・・・なのだ。 それが、猫だ。 今回の任務は、彼が巡査部長に昇格して任された中で最も重要なものであった。1つもミスをおかさまいと神経をピリピリさせているところに・・・猫だ。わけが分からない。 たとえ猫1匹であってもゴキブリ1匹であっても、今のこの男の精神状態においては大変な問題である。狂ったようにしてでも排除してしまうべき対象、いつ何時被害を及ぼすか分からない恐怖の対象である。彼はしかめ面で帽子を被り直し、部下にたずねた。 「それ・・・どこで見つけた?」 「185階です!」 若い警官は、まん丸な目をしてこちらを見ている。 猫は彼の腕の中で、満足そうに口の周りをなめている。その目が、主任をバカにするかのように光った。 「よりによって・・・」 何で俺の割り当ての場所にいるんだ!と言いたいのだろう。 だが、若い警官は、上司の苦悩など全く意に介さぬといったふうにど真面目な顔をして言った。 「私が思うにこの猫は、この完璧な警備を破ることは出来ません。外部からの進入が無理だとすると、もしかしたら、このビルのどこかで飼われていたのかもしれません。あるいはいつの間にか隠れて住みついていたのかもしれません。あるいは・・・」 「そんなことどうでもいい!」 俺の部下にこんなバカがいたのか!これ以上神経が逆なでされるのは我慢ならない。主任は明らかに精神をかき乱されていた。彼は若い警官を睨みつけた。 警官は多少萎縮したようだったが、それでもたずねた。これが、彼が今最もたずねたかったことだったからだ。 「主任、この猫はどうしたらよいでしょうか?」 だが、主任は投げやりに答えた。 「もういい。放って置け」 そして、猫を抱えた警官に背を向けた。俺には他に山ほど仕事があるんだ。巡回指導報告連絡また巡回指導報告連絡巡回指導報告連絡指導指導指導指導!・・・・・・たかが巡査の、たかが使われ役に過ぎない小僧には思いつかないほどの仕事が。 だが若い警官は、そんな上司の心の中なんておかまいなしに言った。 「しかしこいつが勝手に動き回って警報装置が作動してしまったら大変ですよ」 「は?」 主任は怒りの形相で振り向いた。が、内心はその言葉で大きく揺れていた。 確かに。こいつが逃げ出したら何をしでかすか分からない。ならばひもでつないでおくか箱に入れておくのがいい。そうさせよう。 だがここで、彼の気の小ささが顔を現した。 しかし、待て。万が一、何らかのトラブルでそのひもが切れたら、箱が開いてしまったら・・・。面倒なことが起こるかもしれない。警備は完璧にしなければならんのだ。念には念を入れなければならない。もう少しだけ時間はあるな。トラブルを引き起こしうる要因は、すべて、どんなものであっても排除しておかなければならない。そうでなければ完璧な仕事はできない。完璧に任務を遂行する、それがプロというものだ。 だがそこでまた、警官が上司の思考を無視して言った。 「主任、どうしましょう?」 なんとまあ純粋な顔だろうか。丸すぎる目、だらしなく緩んだ口元・・・。なんということだ!元々、それくらいは自分で考えりゃいいことなのだ。猫ごとき、俺に相談しなくとも自己判断でどうにでもできる。普通ならそうじゃないか。なのに、こいつはそんな簡単なことさえ考えることができない単純な思考回路しか持ち合わせていないらしい。今どきの若い奴らとは、一体全体どんな理論で動いてやがるんだ?全く持って理解できん。こいつには俺の苦悩など分かりはしない。けっして、一生、分かりはしないのだ。責任者としての立場に立つ者の苦悩がどういうものかってことが!もう関わりたくない。同じ空間に置かれることさえ胸くそ悪い。猫を連れて下に行かせれば、ここに上がってくるほど時間は残らないだろう。そうすればお払い箱。一件落着! 主任がちらりと警官のほうを見ると、こともあろうに彼は猫と呑気にたわむれていた。 彼は、彼の心の平安をおびやかす1人と1匹をこの場から排除することを決定した。彼は即座に次世代の部下をやさしく見守る上司面になると、その警官にほほえみかけた。 「よし分かった。すべて君の言うとおりだ。君はそれを連れて下まで降りなさい。降りて、外に出して来るんだ」 よしよし。これでストレスの要因はいなくなる。 主任はにんまりした。心の奥で。 が、その話を聞いた警官は、きょとんとして言った。 「しかし主任、それは無理ですよ」 「は」 「階段もエレベーターも使えませんから」 そう、だった。階段は今、5階ごとに防火シャッターが降りて半封鎖状態。あと数分すれば、各階を隔てる防火シャッターも下りてきて、全く行き来できなくなる。 だが、しかし、それを何故、今、お前が、指摘する? 主任の耳から煙が噴き出した。 「そんなことは知ってるんだよ!つべこべ言わずにさっさとしやがれ!」 「会長、宮本警部がお話したいことがあるそうです」 秘書の三瀬りつこは、うしろに数人の警官を連れて秘書室から帰ってきた。その中には茶色のスーツに黒っぽいネクタイを締めた男も混じっていた。その男は会長の姿を認めると頭を下げた。今回このビル警備の指揮を取る、警部・宮本宗平であった。彼は力強い足取りで会長のところへ向かった。 「会長」 警部がそばにやってきて声をかけたが、会長はそれを無視して窓の外を睨んでいた。 「この部屋にももうそろそろ人員を配置する必要があります。よろしいですか」 警部は会長の顔を覗き込むようにして言った。会長はというと、1度も目を合わすことなく答えた。 「好きにしろ。ただし、終わったらさっさと帰ってくれ」 会長ははじめ、会長室に警官を入れるのを嫌がった。もっと根本的なことを言えば、警察を呼ぶこと自体拒否していたのだ。だが、社長が弱気ながらもそれに抗して密かに警察を呼んだ。会長の虫の居所が悪くなるのは言うまでもない。 そのため、宮本警部がこの事件でまず手を焼いたのは、この頑固極まりない会長の説得であった。そして結局、警察側も会長も、互いの主張を折った。犯人の指定した時間の20分前までは警官を会長室に入れず、その後は厳重に警備するという話に落ち着いた。だが、どちらも相手に多くを譲りすぎている、と内心は納得していないようだ。宮本警部をはじめ警察側の人間にとっては、この部屋に客人を入れておくことも不愉快でたまらないことだった。 警部が合図すると、7人の武装した警官たちが部屋の中に散らばった。2人が絵の両端に、他の5人はランダムに。防弾チョッキに暗視ゴーグル、ヘルメット、警棒、無線機、拳銃・・・。特殊部隊並みの装備を身に付けた黒い男たちは、その装備の素晴らしさに拍手を送られるとしても、全くこの部屋にマッチしていなかった。 多賀城がほぼ反射的に顔を引きつらせたところ、ちょうど目が合った沢田は肩をすくめた。彼も同意見らしい。続いて秘書の三瀬りつことも目が合ったが、彼女は全く表情を変えることなく、彼から目をそらした。まったく、秘書らしすぎる女だ。 「でも、時間通りに来るのかしら?」 武装警官たちには興味がなさそうに腕時計を見ていたサキが言った。 「どうですかねぇ。予告状には午前0時と書いてありましたが」 社長は微妙な笑いを浮かべた。 「出遅れる、あるいは失敗、なぁんてこともあるかもしれませんね!ねぇ、多賀城さん」 沢田は自分の言ったことに1人でうけていた。 多賀城は、何で俺に話を振るんだと少し迷惑そうに相槌を打った。会長のほうを見ると、皆の会話を無視してパイプをふかしている。しかし、その目や頬の辺りからは、明らかに怒りの色がにじみ出ている。怒りだすのは時間の問題だ。例えば、「わしを笑いぐさにして何が楽しい、このハイエナどもめが!」という風に。 だがそんなことを考えながらも、多賀城は話を継いだ。 「じゃあ・・・フライングなんてこともあるかもしれませんよ」 それを聞いた沢田は、「フライング!」と大声で繰り返して笑った。 人員の配置を会長に説明していた宮本警部が、ちらりと客人たちのほうを見た。 「あれ?」 上階からやってくるエレベーターを待っていた警官2人は、開いたドアの中をのぞきこんで声をあげた。 そこには三毛猫が1匹、ちょこんと座っていた。 「・・・誰か1人、一緒に降りてくるって、言ってなかったか?」 「ああ・・・」 上からの連絡ではそういうことになっていた。困惑する警官たちを無視して、猫は鈴をちりちり鳴らしながら彼らの足元を走り抜け、玄関の自動ドアをくぐり、真夜中のオフィス街に消えた。 2人は早速そのことを上司に報告した。 それを聞いた彼らの主任は上階と連絡を取りに行ったが、無線で180階から185階担当の巡査部長と連絡を取った主任警官は、2人のところに戻ってきた時、行く前よりも少々青い顔になっていた。 「エレベーターには、やはり、警官が1人と猫1匹が乗っていた」 2人の警官は顔を見合わせた。彼らは急いでエレベーターのところに戻り、その中を隅から隅までチェックした。すると―――― 開いたのだ。エレベーターの天井にある緊急脱出用の扉が。そしてその真上には、赤外線センサーの赤い光が1本も走っていない、純粋な暗闇が果てしなく伸びていた。 午前0時10分前。宮本警部は一度頭を下げると、会長室の正面の扉から出ていった。 会長はあいかわらずの顔つきで、しかしようやく顔を上げて警部が去ったあとを見やった。その前をいそいそと通りすぎて社長は、警部の言付け通り、正面と、秘書室につながる扉2つに内側から鍵をかけた。 会長は窓際を離れ自分のデスクに向かうと、灰皿のふちを叩いてパイプの中身を落とした。長年使われてきたらしい渋みのある色合いをした木製の大きなデスク。その木目は激しく波打って表面に浮き上がり、美しさも、それに異様ささえも感じさせていた。 「警察も大変ね。これだけ大騒ぎして捕まえられなきゃ、世間に叩かれるっていうのに」 武装警官たちを見て、同情的な声でサキが言った。 「どうもやりにくそうですね」 「・・・まあ」 多賀城が社長に言うと、彼はうつむいて曖昧な笑みを浮かべたまま両手をこねていた。 絵の前に移動していた沢田は多少心配そうにちらりと視線を動かしたが、われは蚊帳の外とばかり、再び鑑賞に戻った。 その時突然、会長の口から言葉が発せられた。 「わしが真に信用するのはわし自身のみ」 みなが驚いて彼のほうを見た。彼は続けた。 「警察であったって何であったって、そいつの腹の奥に何があると思う?正義か信念か思いやりか。そんなものがあると思っているうちが花だな。邪魔なお飾りを引っぺがして見てみたところで、そこにあるのは自分を中心に世界が回っとるというナルチシズムのみよ。すなわち、全く裏切ることがないのは己自信だけだ。だからわしはわしのやりたいようにする。それが一番信用の置ける方法なのだよ」 多賀城は肌を刺す空気を感じた。サキは顔をそむけて「バカな哲学」と言ったが、幸いにもその声は会長に聞こえてはいなかった。彼は確信めいた口調で言った。 「わしはわしを裏切らん」 会長は部屋の一同の視線を集めたまま、絵に足を向けた。 社長は背中を丸めてメガネを押し上げた。 エレベーターシャフトの中には一筋の摩擦音が響いていた。 それはだんだんと、ものすごいスピードで最上階に向かって突き進んでいる。 まっすぐに。 何かを渇望するかのように。 ひとかけら、オレンジ色の火花が散った。 衝撃とともに、ありとあらゆる電子機器のパワーがダウンした。 まずは会長室のフロア、それからすべての階にわたって、宮崎氏のビルの明かりは完全に消えた。 「どうした?!」 会長が大声で叫んだ。部屋の中にはどよめきが広がる。 「始まったんですよ!早く、誰か絵を守って!」 多賀城がそう言った瞬間、部屋の外で何十発もの銃声が鳴り響いた。部屋の外を固めていた警官隊と何者かが打ち合っている。 「何があったのよ!ここ、電源が切れても予備のがあるって言ったじゃない!」 尾形サキが悲鳴にも近い声を上げた。 多賀城はちらりと自分の腕時計を見た。蛍光塗料の塗られた文字盤は光っているものの、時計の針はぴくりとも動かない。一体どうしたんだ。 「皆さん落ち着いてください!」 警官が叫んだ。 だが、それに従う者はいただろうか? 無知な一般人たちは、めいめいが勝手に声を出し、てんでに動いた。 それに、落ち着けと叫んだ警官たち自身も落ち着かなければならなかった。あわてて装着した暗視ゴーグル、彼らにフクロウの目を与える魔法の道具は、内蔵されている電気系の回路が破壊されすでにガラクタと化していた。 会長は手探りで絵の元に向かった。意地でも盗られるわけにはいかない!彼のプライドが音を立てて燃え上がった。 絵の一番近くにいた沢田は、どうやら必死でそれにしがみついているようだ。そして、とにかく何か言っていないと恐ろしくてたまらないというように声を出し続けている。 「会長!皆さん!大丈夫!大丈夫!絵は私が守っています。しっかり持っています。ちゃんとここにありますよ!無くなってなんかいませんから!大丈夫!ここにあります。大丈夫です!・・・・・・」 だがその時、彼は背後に何者かの気配を感じた―――― 縮み上がって声が出なくなって、彼はゆっくりと振り向いた。 「ぎゃあああああああああぁぁっ!」 沢田の声だった。 「沢田さん!」 一同が驚いて部屋の中を見回した。とは言っても、南の窓からわずかな光が入ってくる以外は完全に暗闇で、誰がいて何が起こっているのか全く分からない。 すると突然、ことことと走る音がした。誰かが秘書室のドアに向かったのだ。ドアノブがぎちっと音を立てた。 「待て!誰だ!」 数人の男たちが声を上げた。おそらくは警官たち。すると、間髪入れずに声が返ってきた。 「ち、違います!違いますって、私ですよ!」 社長の宮崎正巳だった。 「開けないで!まだ開けてはいけません!」 少しはなれたところから、こちらも警官らしい声がした。 社長のほうに気を取られていると、窓からの薄明かりの中に人間が1人転がり出した。絵を額ごと抱えている。 それは沢田だった。だが、よく見れば1人ではない。彼の左足には会長が、その後ろには武装警官が1人しっかりとしがみついているではないか。 「バカ者!私だ沢田君!間違えんでくれ!」 「あぁ?会長・・・!はぁ・・・すいません・・・泥棒が・・・襲ってきたのかと・・・・・・」 沢田と会長はじゅうたんの上にへたり込んだ。老体に鞭打って激しく動いた会長はかなり息を荒げており、沢田はと言えば、床に置いた絵を呆然と見つめて汗をたらしている。 警官たちは外と連絡を取ろうと無線機をいじっていたが、それも使い物にならないようだった。 「みなさん、ひとまずこちらに集まってください」 会長にくっついていた警官が今は立ち上がって、自分たちがいる場所を指した。 やっとわれに帰った部屋の面々は、ぞろぞろと窓のそばにやって来た。 「全く、驚かさないでくださいよー」 どこから出しているのかというようなかん高い声で社長が言った。 「バカもんがぁ!」 会長の声がこだまする。 まだぜいぜい息をしている会長のそばには秘書が座って、彼の背中をさすっていた。 部屋にいたすべての人間がここに集まっていた。 「絵は無事ですね」 多賀城が安堵の混じった声で言った。 沢田が勘違いして騒いだことと社長が1人で逃げようとしたこと以外は、変わったことはなかったようだ。絵は一同の足元に置いてあるし、誰一人傷付いてもいない。会長、社長、沢田、サキ、秘書、多賀城、それに7人の警官たちが薄明かりの中にぼんやりと姿をさらしている。サキと秘書は顔を見合わせ首をかしげた。 その時にはもうすでに、部屋の外は静まり返っていた。 会長室前の廊下では、警官たちが凍りついていた。 銃撃で起こった土けむりや催涙ガスが少しずつ晴れて、ドアの開いたエレベーターまでの通路が姿を現し始めた。 「行け」 ガスマスクを付けた4人の前衛が、マシンガンを構えて進んでいく。誰かが点けたライターの光が、数え切れないほどの弾丸が突き刺さった壁を照らし出していた。ヒビの入った部分のコンクリートは、ときおりぱらぱらと崩れてくる。 明かりが消える直前に見えた人影は1つだった。 午前0時数分前、開くはずのないエレベーターのドアが突然開いて、そこからにゅっと伸びた1本の手が、小さな丸い物体を警官隊めがけて投げつけてきた。床にぶつかる衝撃でその物体は勢いよく白い煙を吐き出し、それと同時に明かりがすべて消えた。どういうわけか暗視ゴーグルも使えない。ガスのおかげで、ゴーグルとマスクを付けていなかった警官たちはむせ返って後退せざるおえなくなった。彼らは慌てた。すると煙の向こうから銃声が。相手は容赦なく撃ってきている。警官隊は瞬時に撃ち返した。侵入者は多くともおそらく数人。それに、エレベーターは袋小路にあるため逃げ場所はない。大泥棒には勝ち目はなかった。 ジャリジャリと砂っぽい音を立てて4人の男たちが進んでいく。彼らはエレベーターの前までやってきた。 エレベーターの扉は開いているもののその向こうにゴンドラは無く、数本のケーブルが垂直に釣り下がっている空間だけがあった。肝心の泥棒の姿も無い。 「堕ちたのか・・・?」 1人の警官が中を覗き込んで言った。 ライターの小さな光で照らされたその空間は、奈落の底まで続いているようだった。 「どういうことだ?」 廊下の隅に目を凝らしていた別の警官が言った。が、扉の向こうを覗き込んでいた警官が声を上げた。 「おい、何だこれは?」 数人が集まってきて、最初に覗き込んだ警官が指差している部分を見た。扉のすぐ下。暗闇の中に白い物体がぶら下がっているのがわずかに見える。 「何だ・・・あれは」 そうつぶやいた声には、ごくわずかに恐怖が現れていた。 「手・・・・」 別の一人が小声で言った。 4人は顔を見合わせる。 もしかしたらあれは、泥棒の、死体の一部かもしれない。誰もがそう思った。 それは、床に這いつくばり手を伸ばせば取れる高さにある。 「持ってろ」 1人の警官が仲間にマシンガンを渡して、その物体に手を伸ばした。白いものに触れると、手袋越しにぐにゃりとした感触が伝わってきた。鳥肌が、手の先からものすごい速さで体中に広がった。だが、彼はこらえてその物体を一気に引き上げた。妙な重さがあった。 がしゃん 警官は引き上げた物体を床の上に置いた。 ほの暗い光の中で一同はその物体の全貌を見た。そして、言葉を失った。 手。 それは手だった。 4人のうちの誰かが「あっ」と悲鳴を上げた。 だがその後すぐ、彼らは気付いた。凝視すればすぐに分かることだった。 それは、ゴムでできたニセモノだった。その手は、軽いアルミニウムのような金属で作られた、長い、折り曲げ部分のついたアームの先に取り付けられており、そのアームは色とりどりの配線が絡み合った奇怪なマシンから伸びていた。さらに先を見ると、その物体は何か重たいものが入った黒い箱とつなげられている。 「何だこれは・・・」 1人が黒い箱を見て言った。見ていて気持ちのいい代物ではない。 「この音も・・・さっきはしてなかったよな?」 別の1人も言う。 そういえば、変な音が聞こえてきている。箱の中からだった。ジージーザーザーというかすれたような音。例えれば、波の音、砂嵐、何かがうごめく音・・・。時折ビービーとノイズが走る。 「気をつけろ、爆発物かも知れん」 その声で4人のうちの2人が、待機している後方部隊へ報告に走った。 「一体何なんだ、この装置は?」 機械を眺めていた警官がつぶやいた。手の付いたほうから黒い箱までをずっと観察する。なんという奇妙な形なんだ。本物の人の手ではなかったものの、無生物とは思えない。暗闇の中に転がるそれを見て、彼は寒気を覚えた。 よくよく見ると、箱のふたは金属の留め金だけで固定されていて、鍵はかかっていないようだ。 その時、雑音をかえくぐって、彼の耳に思いもよらぬ音が飛び込んできた。彼は驚いて後ずさりした。 「おい・・・!」 もう1人の警官は顔をあげた。 「・・・これ」 後ずさりした方はためらいがちに言った。 「中から、人の声がしないか?」 相棒の唐突な発言に、もう1人の警官はとまどった。 「・・・何を言ってるんだ」 「よく聴け!」 何かに気付いたほうの警官は必死で訴えている。 言われたほうも、混乱した頭で懸命に耳を傾けた。 そしてやはり、彼も聞いたのだ。 「あ、ああ・・・小さいが・・・・・・何か言ってるな・・・・・・。・・・女の声だ」 2人は顔を見合わせた。 女の声。しかもこれは、初めて聞く声じゃない。どこかで聞いた覚えがある声だ。どこかで―――― そしてほぼ同時に、彼らはその声が何なのか分かった。 1人がおもむろに、全く自然に手を伸ばし、黒い箱の留め金をはずした。2人の中には共通の奇妙な確信があった。これは爆発などしない。絶対に。 留め金をはずした手で、箱のふたを持ち上げる。もう1人が、ゆっくりと上げられるふたのあいだをライターで照らした。謎の音がわずかに大きくなる。 読みは当たった。 箱の中には、真っ赤なボディのラジカセが1台入っていた。カセットテープが入っているが、それは動いていない。壊れかけているようだ。 警官はそのまま、そのラジカセの1つのつまみを容赦なくスライドさせた。 ぐゎん! 2人は慌てて耳を塞いだ。ラジカセからは殺人的な音量で音が飛び出した。 「ハァ~イ!みんな、今夜も聴いてくれてありがとう!舞春カスミのエブリナイトDJ、続いてはぁ・・・ノラネコじろうさんからのリクエスト、collage bird の『You can’t catch me』!」 「確かに本物だな?」 「当たり前ですよ!私がずっと抱えてたんですから」 会長と沢田は、会長室のじゅうたんの上に座り込んだまま話していた。 絵は会長と沢田の間に横たわっている。 「全くもう、驚いた・・・」 サキが胸をなでおろしながら言う。 「犯人は外にいたようね?どうなったのかしら?」 「さあ・・・」 多賀城は座り込んでいる2人を見て、それから会長室の入り口があるほうを見た。少し目が慣れてきて、暗闇の中でも扉の輪郭くらいはかろうじて分かるようになっていた。 「あの・・・」 社長が控えめに声を発した。すると案の定、会長の厳しい目が飛んだ。 「どうかしましたか?」 警官の1人が尋ねる。 社長は会長の目線を気にしながら言った。 「ええ・・・何か、外、騒がしくないですか?音楽も聞こえるみたいだし・・・」 その時、会長室のドアが激しく連打された。 「あけてください!」 扉の向こうからは何十人もの声がする。 社長から鍵を受け取った武装警官の1人が、急いで扉まで走った。 鍵が外れるや否や、警官たちの塊が部屋の中になだれ込んできた。彼らは入ってくるなり拳銃を構え辺りをうかがっている。その姿が赤っぽいライターの光で浮きあがった。だが、この部屋にずっといた人間からすれば、それは非常に無意味な行為だった。よく見ればその集団の中には、先ほどやってきた宮本警部の姿もある。 「ど、どうかされたんですか?」 社長が恐る恐るその険しい雰囲気の男たちに話しかけた。 「ドアを閉めろ」 警部が鋭い目つきのまま、最後列の警官に指示する。彼は今開けられた扉から誰も出ていないことと、それが完全に閉められたこと、それから天井裏がどうのこうのということを確認すると、ポケットから四角いライターを取り出して火を点け、頭上に掲げ、天井のある一点を指して言った。 「犯人はもうこの部屋に忍び込んでいます」 部屋の中がざわついた。 警部の指したところには、ちょうど人1人が通れるほどの小さな正方形の穴があいていたのだった。 「まさか・・・」 沢田がつぶやく。会長も社長も、みなが顔を見合わせてきょろきょろと何者かの気配を探した。 その時、窓の外で爆音がとどろき、会長室は一気に光に包まれた。ヘリがホバリングして、こちらに向かってライトを照射しているのだ。みなその強烈な明かりに目が眩んで立ちすくんだ。 「ひええ!」 社長と沢田がほぼ同時に情けない悲鳴を上げた。 その次の瞬間、部屋の端から声があがった。 「警部!誰か倒れています!」 その声を聞くと、動揺する6人を残して宮本警部は走った。 「誰だ?」 警部が警官たちをかき分け輪の中心をのぞく。するとそこに倒れていたのは、沢田武人その人だった。かすかなイビキが彼の大きく開いた口から聞こえる。 次の瞬間―――警部が「沢田さん!」と驚嘆の声を上げる寸前、起きているほうの沢田が床の上の絵をさらって立ち上がった。そばにいた者は何が起こっているのか分からず言葉を失っていた。 「誰だ!」 警部の声。 沢田まがいの男の顔に、子どもじみた笑いが広がった。 男は身をひるがえして巨大なガラスへ突っぱしった。 警官たちがわめきながらそれを追う。 怒りに任せ立ち上がろうとする会長の脇を抜け、数人の警官がニセ沢田に迫った。 が、その警官たちは崩れ落ちた。 ニセ沢田と警官たちとの間に誰かが立っている。 多賀城だった。 「お前!」 警部は多賀城をにらみつけた。 残りの警官たちがとっさに銃を構える。 「やめて!」 女の金切り声が聞こえた。 サキの声だった。明らかに震えている。 彼女はヘリのライトをバックにし、小さく両手を上げて立ち尽くしていた。 彼女の陰には、秘書の三瀬りつこが立っていた。 「動かないで」 今度は揺れのない声。 3人目だ。 警部は踏みとどまった。ここで急いではならない。ここは一歩退いて相手の出方を待つ。なにせ奴らは袋のネズミだ。投降するか逃げる手段を要求するか、それはその後だ。 なおも秘書はサキを盾にしている。 「一同、下がれ」 少しの沈黙の後、警部の声が低く静かに響いた。 また沈黙。 会長は摩擦音が聞こえそうなほど歯を食いしばって床に手を付いている。サキは人質で、本物の沢田はのびたまま。社長はと言うと、逃げなかったのか逃げられなかったのか、会長のすぐそばに突っ立っていた。 「落ち着け・・・」 警部は3人の泥棒に向かって穏やかに語りかけた。だが、無関心に秘書の声がそれをさえぎった。 「失礼」 彼女の拳銃を構えていないほうの手が上着のポケットに入り、なにかがかちりと小さな音を立てた。 と、床も空気も割れるかと思うほどの音がして、なんと、南のガラスが砕け散った。 それを見ていた人々の目には、一瞬目の前に白濁色の壁が出現したかのように映った。だがその壁は瞬く間に細かい破片と化し、水晶のようにちらちらと光を反射しながら地上へ降っていった。後光が恐ろしく荘厳に皆を射た。 だが、直後に暗転。パリンという小さな音とともに光の源が消えた。ヘリが驚いて身をひるがえす。ライトを割ったのは秘書の拳銃だった。 奴らは“ここ”から逃げる気だ。 部屋の中に風が流れ込む。 「畜生!」 警部の口の中で勝手にその言葉がつぶやかれていた。 だが、どうやって逃げると? 彼は泥棒3人を見据えた。そしてその中の一人が彼の視線をとらえた。 ニセモノの沢田が彼を見て笑った。暗闇の中だ。はっきりは見えていない。だが、確かに笑った。そして相手は絵を自慢げに掲げた。 見せ付けているな。 警部の腹の底から怒りがこみ上げてきた。 だが。 ニセ沢田の手から、絵は滑り落ちた。 がらんという音をたてて、その絵は床に放り出された。額が歪んだ。 「あああああああ!」 会長が叫び、転がった絵に飛びついた。 そんなばかな。 足元の絵に覆いかぶさっている会長を見て、ニセ沢田は口元で笑った。 泥棒は、戦利品を放棄した。 「じゃあ!」 こともなげな声で別れを告げてニセモノの沢田は、全く躊躇することなくそのぽっかり空いた空間へ飛び込んだ。消え去った。ガラスのかけらと同じように、その男もまた地上へと降っていった。 「ここが何階だと・・・!」 会長の声は完全に裏返っていた。目の前で高層ビル335階から生身の人間が身を投げたのだから仕方がない。 沢田が飛び降りたのを横目で確認して、今度は多賀城が窓へ走った。 「待て!」 警部が叫んだ。 「死ぬな」ということか「捕まえてやる」ということか判断しかねるその言葉は宙を舞い、多賀城はすでに消えていた。 サキは小さな声でやめてやめてとつぶやき続けている。目は開けていない。一同の視線が残った秘書に集中した。 「三瀬君・・・君は一体・・・・・・」 会長が床にはいつくばった格好で絵にしがみついたまま、大きく目をむいてつぶやいた。その老人を見下ろして、だ円の眼鏡越しに秘書がさらりと言った。 「残念ですが会長、私はあなたの秘書ではありません」 そして銃を構えたまま、彼女も飛び降りた。ふわりと髪の毛が弧を描いて消えた。 サキが力ない声を上げて倒れこむ。 「何なんだ!」 誰かのその声と同時に会長室にいる者は皆、破壊されてひらけた窓に群がった。絵を盗みに来た人間が、一度盗んだ絵を捨てて飛び降りた。 うそだろう。 宮本警部も目が眩むような高さから下を覗き込んだ。多くの者が腹ばいになっていた。こんな高さで立ってはいられない。 そう、それは嘘だった。 そこには、飛び立った3羽のカラスたちの姿があった。 グライダー。すべて黒のグライダーが、高層ビルの間を抜ける風を受けて遠ざかっていく。 一同ぽかんと口をあけてその様子を見ていた。 高音と低音の入り混じったビル風が吹いてきた。 「・・・・・・なんて奴らだ・・・!下に連絡、追跡しろ!」 われに返った警部は怒りの形相で叫んだ。 警察は死にもの狂いで3人を追い続けた。狙撃手、何百台ものパトカー、ヘリ、サーチライト・・・・・・銃弾の雨をものともせず飛び交う鳥たちを彼らは追った。だが、その鳥たちがとある川の土手に舞い降りた時、警官たちが彼らに駆け寄った時にはすでに、そこにはその両翼しか残されていなかった。 ‐プロローグ‐ 完 第1章に続く |