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より良い明日をめざして



 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。(日本国憲法 前文)
2024年06月18日
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テーマ:ニュース
カテゴリ:ニュース
1945年8月に英米露蘭中との戦争に敗北した日本が、今度は米国の手下になって戦争を始める準備に入ったことについて、毎日新聞専門記者の栗原俊雄氏は2日の同紙に、次のように書いている;


 始まった戦争は容易に終わらない。ウクライナとガザでの戦争で、私たちはそのことを改めて実感した。戦争を始める為政者の多くは戦場の最前線に行かない。そして戦争の終わらせ方を知らない。かつての大日本帝国(帝国)がそうだったように。今回は帝国の「終戦構想」を振り返りつつ、日本政府が想定する「新しい戦争」について考えてみたい。

 前回の本欄で書いた通り、帝国の指導者たちは武力で米国を屈服させられないことは分かっていた。ではどうやって戦争を終わらせるつもりだったのか。一応の「終戦構想」があった。開戦1カ月弱前の1941年11月15日、「大本営政府連絡会議」(主要閣僚と陸軍参謀本部、海軍軍令部の幹部らによる会議)でまとめられた「対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」だ。

 要約すると

(1)東アジアや西南太平洋から米国、英国、オランダの勢力を排除して重要資源を確保し、長期自給自足体制を整備する
(2)中国(蒋介石政権)を屈服させる
(3)三国同盟を結んでいたドイツ、イタリアと連携して英国を屈服させる
(4)それによって米国の戦意を失わせ、講和に持ち込む

――というものだ。

 (1)は最も可能性があった。開戦後、日本軍はインドネシアでオランダ軍、フィリピンで米軍、シンガポールで英軍を破るなどして連合国から植民地を奪取した。「大東亜共栄圏」が実現するかに見えた。だが米国が戦備を整えて本格的な反攻を始めると、制空権も制海権も握られ、重要資源を日本に送れなくなった。(2)についていえば、中国には37年から4年間戦って勝利できていなかった。さらに米英などとも戦争を始めてしまい、勝つのは至難となった。

 (3)も可能性は低かった。海軍力が弱いドイツにとって、英本土上陸作戦を決行するのは困難だった。41年6月にはソ連とも戦争を始めたのだからなおさらだ。注目すべきなのは、ドイツがこの二正面作戦を開始した後に、帝国首脳がドイツの対英戦勝利を前提とした「構想」を決めたことだ。仮にドイツが英国に勝ったとしても、米国が戦意を失い帝国にとって都合のいい講和に応じる保証はまったくなかった。

     *   *

 当時、陸軍の軍務官僚だった故・石井秋穂氏はこの「構想」作成に関わった。昭和史研究の第一人者でノンフィクション作家の保阪正康氏が石井氏に取材している。作成について聞くと「考えてみればむちゃくちゃな話ですよ」と回顧したという。「願望みたいな内容の腹案をつくるしかなかった」とも明かした(保阪氏「昭和史、二つの日」)。陸海軍とも幹部たちは戦争に前のめりだった。この時すでに帝国は「戦争ありき」で動いており、形だけでも終戦構想がほしかったのだ。

 この願望に空想を積み重ねた蜃気楼(しんきろう)のような「終戦構想」は、私の歴史観の柱になっている。それは「為政者は、時に庶民の想像よりはるかに重大な間違いを犯す」ということだ。

 帝国は開戦後しばらくは勝利を重ねたものの、次第に国力の差があらわになった。たとえば44年7月。マリアナ諸島のサイパンが米軍に占領された。ここを拠点に、米軍は戦略爆撃機B29による日本本土爆撃を執拗(しつよう)に続けた。一方、帝国が米本土を戦略爆撃することは不可能だった。同年10月にはフィリピンに米軍が上陸し、戦力で大きく劣る日本軍は追い詰められていった。

 遅くともこの時点で(1)~(3)のすべてが破綻しており、敗戦は明らかだった。実際、開戦前に3度首相を務めた近衛文麿は45年2月14日、昭和天皇に早期終戦を訴えている(近衛上奏文)。実際の終戦より半年も前のことだった。

     *   *

 だが昭和天皇は、どこかで連合国軍に勝利し、それを背景にしてより有利な条件で講和する(一撃講和論)という意図から近衛の案を採用しなかった。ずるずると戦争を続けた結果が沖縄での凄惨(せいさん)な地上戦だった。その沖縄が米軍に占領されても帝国は戦争をやめなかった。連合国と講和すべく頼ったのはソ連。帝国は、米英との間で日本侵攻の秘密協定を結んでいたこの国に、天皇の特使として近衛を送ろうとした。だが相手にされず、逆に45年8月8日に宣戦布告された。やめられない戦争の帰結が広島と長崎への原爆投下であり、シベリア抑留だった。

 戦争になれば被害は庶民に広く、長く、深く及ぶ。日本政府が「新しい戦争」に備えるのなら、被害を最小限にするための「終戦構想」も想定する必要がある。だが、まともな構想が作られることはないだろう。あるいは密室で再び「蜃気楼」のような「構想」が作成されるかもしれない。「構想」無しの「戦争準備」。もしくは現実味がまるでない「構想」。いずれにせよそれを暴くのがジャーナリズムの役割であり、戦争の抑止力になると思う。
(専門記者)


2024年6月2日 毎日新聞朝刊 13版 9ページ 「現代をみる-大日本帝国『終戦構想』に学ぶ」から引用

 この記事は、先の大戦が如何に無計画で無責任で場当たり的な「指導部」によって遂行された戦争であったかをよく表現できていると思います。大日本帝国の「指導者層」は、武力でアメリカを屈服させることは出来ないと分かっていたが、自分たちで言い出した「戦争をするぞ」という掛け声を、途中で修正するとなるとそれなりの責任を取らされる羽目になるから、一度「やるぞ」と言い出したらとことんやるしかない、そういう心境でずるずると無駄な戦闘を続けて、一般国民を無駄に死なせて、広島・長崎に原爆を落とされてようやく白旗を上げるという体たらくであった。国民はこの戦争指導者たちの責任を追及するべきであったのに、それを怠って今日まで来てしまったために、またぞろこの国の指導者層は戦争の準備を始めている。我々は、自分たちの命を守るために、この国の政府が戦争を始めることに対し、はっきりと「反対」の意思表示をして、国が戦争を始めることを阻止していきたいと思います。





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最終更新日  2024年06月18日 01時00分10秒


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