イギリスのEU離脱は賢明な判断だったのか、愚かな選択だったのか、素人にはなかなか理解できない事例であったが、同志社大学教授の浜矩子氏は、この問題について7月17日の東京新聞に、比較的分かりやすい解説を書いている;
この間、「プレグジツト」(Brexit)についてたくさんの取材を頂戴した。ご存じ、英国の欧州連合(EU)離脱問題である。懸命に対応しているうち、連想言葉が1つ頭に浮かんだ。それは”Brexodus”だ。「ブレクゾダス」と読んでいただきたい。
この連想言葉をもって考えたいのは、英国のEU離脱が英国からの企業や人々の脱出につながるかというテーマだ。”exodus”は脱出の意だ。旧約聖書中の「出エジプト記」の原題が”exodus”である。当時のイスラエルの民はエジプト配下にあった。彼らの大脱出物語が「出エジプト記」だ。
ブレグジツトは、ギリシャの脱ユーロ圏すなわち「グレグジツト」が取り沙汰される中で生まれた言葉だ。どっちも、誰が最初に使いだしたか分からない。だが、「ブレクゾダス」は、筆者が知る限り、筆者の発明だ。知的所有権を確立しておく必要ありか?
それはともかく、ブレグジツトがブレクゾダスをもたらすか否かは一重にブレグジツト後の英国の対応いかんだ。そして、それを規定するのが何のためのブレグジツトだったかという問題である。彼らは開放を求めてEUからの離脱を選んだのか。閉鎖のための選択だったのか。
実をいえば、プレグジツトについて筆者はいささか複雑な思いを抱いている。離脱という選択は正しかったと思う。だが、この正しい選択は、果たして正しい判断に基づくものだったか。そこに、どうも一抹の不安が残った。
少し時間が経過する中で、不安の要因がかなりはっきり整理できてきた。要するに今回の離脱派の中には、二種類の離脱支持者が混在していたのである。名づければ、かたや「従来型良識的離脱派」。そして、かたや、「にわか型発作的離脱派」である。前者は、開放を求めてブレグジツトを選んだ。後者は、閉鎖願望にしたがってブレグジツトを叫んだ。
従来型良識的離脱派は、統合欧州がどんどん窮屈な均一化の世界になっていくことに懐疑の念を深めていた。海洋国である英国は、常にその内なる多様性と包摂性を誇りとしてきた。相異なる者たちが、相異なったまま、お互いを受け入れ合う。それができる経済社会の開放性に、英国らしさを見いだしてきた。
島国だからこそ開放的でなければ生きていけない。おおらかで融通無碍(むげ)でなければ、安泰ではいられない。そう確信する従来型のEU懐疑派には大陸欧州的「お仕着せワンサイズ」の秩序が、何としてもしっくりこない。世界に向かって常に開かれた英国を復権させたい。それが彼らの思いだ。
一方の「にわか型発作的離脱派」は、日頃の不満や不安をEUにぶつけた。犯人捜し型離脱派だ。押し寄せる移民に職を奪われる。彼らが英国の社会保障制度にただ乗りするのは、我慢ならない。いわば英国版ドナルド・トランプ信奉者たちだ。2つの離脱派のどちらが主導権を握るか。それで、プレグジツト後の展開が決まる。
ここで、日本に思いが及ぶ。「強い日本を取り戻す」ことばかりに政治が固執すれば、日本は共生のグローバル時代からジャバジットの道をたどる。そうなってしまったら、筆者はジャバゾダスを考えなければならない。問題は行く先だ。流浪の民にはなりたくないが・・・。
(同志社大教授)
2016年7月17日 東京新聞朝刊 4ページ「時代を読む-プレグジットの次に来るもの」から引用
EU離脱とは移民に開かれていた扉を閉じることだとばかり考えると、今回のイギリス人の投票行動を正しく理解することができないということのようです。「離脱」に一票を投じた人々の中には「移民のシャットアウト」を目的にした人たちとは別の、もっと世界に扉を開いて開放的にするべきだという正反対の「意志」を持つ人々がいる、そこを見落とすと「イギリス人は何を考えているのか?」という疑問に取り付かれるわけです。しかし、この先イギリスが正しい進路を辿るかどうかは、「従来型良識的離脱派」と「にわか型発作的離脱派」の、どちらが主導権を握るかにかかっているので、油断はできません。