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加藤浩子の La bella vita(美しき人生)

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May 15, 2020
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オペラの裏原作シリーズ ピエール・ロティ「お菊さん」

 今月いっぱい、毎日更新で続ける、と決意した「人生が変わったこの1冊」ですが、昨日はzoom飲みで沈没いたしました。笑。

 昨日アップしようと思ったのは、オペラの「裏」原作シリーズ、ロティの「お菊さん」です。「蝶々夫人」をはじめ一連のジャポニスム舞台作品に大きな影響を与えた、フランスの作家の「長崎現地妻体験記」ですね。1893年刊行。ジャポニスムの大ブームに乗って、大ベストセラーになりました。

 ストーリーは「蝶々夫人」とは全然違います。フランス海軍の軍人である「わたし」は、砲艦の修理のために滞在した長崎で、日本を訪れる前から友人たちからきき知っていた「日本式結婚」をする。仲人は、友人たちから教えてもらった斡旋屋の「カングルウ(勘五郎)」さん。けれどこの「結婚」は「わたし」にとって期待外れで、情熱の盛り上がりもなく、ガッカリして日本を去る、という筋です。お菊さんは、「わたし」にとっては、言葉も感情も通じない、人形のような存在でした。ロティは世界中旅していて、いろんな国で女性と付き合い、情熱的な体験もしたようなので。。。。

 身も蓋もないんですが、笑、「わたし」は非常に勝手な男性でもあります。彼は「カングルウ」さんが推した「ムスメ」は気に入らず、お見合いを見物にきた友人の一人だった「お菊さん」に目を付ける。お菊さんの方ではそんなことは考えていなかったでしょうから、いい迷惑だったでしょうが、彼女の親は彼女を「わたし」に差し出すことに同意します。要は、現地妻制度というのは、貧しさから妾奉公に出るということなのです。そしてその手の女性は「ゲエシャ」とは違う。「ゲエシャ」をもらい受けるのは「法外な要求」だったようなのでした。

 というわけで、ストーリーは「蝶々夫人」とは違うのですが、「お菊さん」は「蝶々夫人」を知る上で欠かせない作品です。なんと言っても、長崎で現地妻制度を実際に体験した人間の(フィクションの体裁は取っていますが)私小説的な作品だからです。「蝶々夫人」の実際の原作は、ロングやベラスコの同名の小説や戯曲ですが、ロングもベラスコも現地妻体験などしていません。ロングの場合、宣教師の夫にしたがって日本に暮らした姉から、いろいろ情報をえているようですが。
 で、この作品と「蝶々夫人」との明らかな繋がりを感じるのは、細々とした描写なんですね。

 例えばオペラ「蝶々夫人」には、女中のスズキがいろんな神様に祈るシーンがありますが、それはロングやベラスコにはなく、お菊さんが間借りしている家の大家さんの祈り、という形で「お菊さん」に出てきますし、結婚式のシーンや、大勢の親類がぞろぞろ出てくる場面も「お菊さん」にあります。仲介人の「カングルウ」だって「ゴロー」と共通します。いわば風俗的な面の情報源なのです。 

 一番印象的なのは、ロティが「快い」と感じている「朝の音楽」の描写です。鶏の鳴き声とか、雨戸を開ける音とか、セミの声とか、とても賑やか。「朝の音楽」は、「蝶々夫人」で、ピンカートンを待って夜明かししてしまった部分に出てきますが、ここは明らかにロティからインスピレーションを得ているように感じます。

 個人的には、ロティの風景描写、風俗描写は嫌いではありません。この作品は、とても音楽的な小説だと思います。 

 それと、「わたし」からみた「日本人」の印象も、とても参考になる部分があります。正直なところ、ロティにとって日本人は滑稽な存在です。みんな小さくて、ペコペコお辞儀ばかりして、醜くて卑屈。この小説やロティの評判が日本で芳しくないのは、主にその辺りにあるのでしょう。けれど、差別的な視線というのは、「蝶々夫人」のピンカートンも同じです。「お菊さん」は蝶々さんとは似ても似つかないですが、「わたし」とピンカートンには共通する部分が多々あります。

 小柄で、お辞儀ばかりしていて、表情が曖昧で何を考えているかわからない、人形みたい、という日本人観は、今だって存在します。欧米人と日本人の感情表現は明らかに違いますし、それに戸惑う欧米人は今でも多い。

 一方で、「わたし」が日本で何に興味を持つのか、という点は、当時の「ジャポニスム」がどんなものだったかを教えてくれる格好の材料です。「わたし」は骨董品を始め細々とした日本のものを買いあさりますが、それはまさしく「ジャポニスム」的な興味であり、ヨーロッパ人が熱狂した対象です。日本の「ムスメ」、ロティが、「扇子の上」や「茶碗の底」で知っていた、と、お菊さんに出会って感じる「ムスメ」も、ジャポニスムの一要素なのです。

 オペラで「蝶々さん」は、いろんな細々したものをピンカートンに見せますが、それも同じですね。

 プッチーニの「蝶々夫人」は、このような「ジャポニスム」を抜きにしては存在しません。

 ただし「蝶々さん」のキャラクターは、個人的にはあまり日本人的ではない、と思います。慎ましさ、なんかは、まあ多少はヨーロッパ人より日本人の方があるのかもしれませんが、貞操観念とか(キリスト教国でない日本は、貞操観念はそれほどでもなかったはず。宣教師たちの証言からもわかります)引き合わされる前から自ら進んで改宗してしまうとか、とてもキリスト教的=イタリア的です(オペラの原作群では、ヒロインは誰も「改宗」などしていません)。19世紀のイタリア・オペラ(ドイツ・オペラも?)で理想とされた、一途で無垢な女性の究極なのです。あるいは娼婦が改宗して一途になった、「マグダラのマリア」です。

 プッチーニは夢の国日本に、現実には存在しない「理想の女性」をおいたのです。モネが、ジヴェルニーの邸宅に、自分が夢見る「日本の庭」を作り上げたように。

 私にとって「お菊さん」は、そのことを実感として発見させてくれた1冊でした。

 というようなことを、新刊「オペラで楽しむヨーロッパ史」(平凡社新書)。にも書いております。よろしければぜひご一読ください。

 それにしても、これもフランス文学。イタリア・オペラがどれだけフランス文学に負っているかということですね。

 野上豊一郎の訳で岩波文庫から出ており、あいにく絶版ですが、中古品は買えます。

 ロティ、野上訳 「お菊さん」 岩波文庫





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最終更新日  May 15, 2020 11:04:10 AM


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