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Chaki-tの日記 [全911件]
・11.21.土 朝の女性合唱団でも、29日の合唱祭に向けての追い込み。 追い込みにしては、手薄な部分が露見しはっぱを掛ける。 午後から阿波座でグループレッスン。 その後、12月1日に西宮文化会館で開催されるシューベルト協会の演奏会の伴奏合わせのため、谷六の会場に向かう。 初めて会うと思っていた伴奏者の女性は、20年以上前に関わっていたオペラ団体の伴奏者であったことが判明する。 恥ずかしいことながら、僕は全く彼女のことを憶えていなかった。 じっくりと合わせをして、雑務を片付けるためまた阿波座教室に戻る。
・11.20.金 朝の女性合唱団では、29日の合唱祭本番に向けて詰めの練習。 皆さん随分それぞれ努力されているとは思うが、僕が目指している今回の努力目標には後一歩。 その後奈良に向かい、運営委員会によるNSKの本番終了後の反省会。 いろんな反省点が出て、気持ち良いぐらいであった。 すべて次のステップへの栄養。 二回目は一回目よりもはるかに手際よく、理想に近付いたものになるはず、そうなくてはならない。 夜は混声合唱団。 今までカラオケしか歌ったことがなかった人、小学校のころに音楽の授業で習った楽譜の読み方だけを頼りに入団された方々には、もちろん難しくて、いくら家で努力して予習復習しても、なかなか満足には歌えないと思う。 おまけに今取り組んでいる曲がまた難しい。 団員の皆様も、僕もへとへとになって練習終了。
近頃また常軌を逸した事件が発生している。 殺した後に臓を引きずり出してみたり、肉を削いだりと理解不可能な残虐性を抑えきれない罪を犯す。 これは言うまでもなくホラー映画の影響であろう。 それが人間の心を逸脱した異常な行為であり、捕まれば死刑も免れないと分っていても欲望を抑えきれない。 しかし実はこの欲望は、すべての人間の奥底に眠っている感情なのかもしれない。 何かの切っ掛けでふと目を覚まし、他人の苦痛や悲しみを理解しようという能力を完全に麻痺してしまう。 例えば戦地での環境。 ローマ帝国の時代や、エジプトのファラオの時代。 組織の中で、何を行っても許される環境。 オウム真理教のような隔離された、独自な世界のなかでの常識に則った正義。 また、ヨーロッパでは昔から「悪魔教」と呼ばれる宗教が存在して、今回のような犯罪を教会内で繰り返している。 彼らは十字を逆に切る。 このようないろんな事例を見ていると、ひょっとしたら我々人間の中に潜在的にある一面であるのかもしれないという思いに行き当たる。 おそらくそれに気付いているのか、ドイツではホラー映画は完全に法律によって禁止されている。 「13日の金曜日」や「オーメン」などもカットとボカシだらけのまま上演されていた。 ホラーは人の奥のどこかの何かを目覚めさせ、犠牲者を出すことに繋がる。 日本でも完全禁止に踏み切るべきなのだ。 でもまた例の企業と政治と警察と国と闇の黒い手の複雑な関係が邪魔するのだろう。 村上春樹の「ねじまき鳥 クロニクル」を読んだ時に、何故彼はこのような小説を書かねばならなかったのだろうとずっと考えていた。 読み終わって余りのショックに一晩眠れなかった覚えがある。 何故なら、おそらくこれは事実あったことなのだろうと感じたからだ。 彼はいろんな人から批判も受けたらしい。 でも彼は答えた「僕はどうしてもこれを書かねばならなかった」。
・11.16.月 日曜日のNSK第九を歌う会本番のため、土曜日のリハーサルの後奈良に宿泊する。 当日舞台に所狭しと280人の合唱団、60人のオーケストラ、4人のソリストが並んでいるのを見て、この会の設立当時のことを思い出していた。 三年前、奈良の一人の知り合いの車の中で僕が呟いたこと。 「健常者と障害者が本当の意味で隔たりなく、どちらがどちらを迎えるのでもなく、同時に一つのことに向かってスタートできる場を持ちたい。合唱でそれがやってみたい」という呟き。 「実現しましょうよ」と言って下さった知り合い。 それがすべての始まりだった。 そして我々の周りに多くの方々が集まって下さり、手足を投げ出して力を貸して下さった。 それが今僕が見ている舞台上の人々であり、その裏で支えていて下さっているスタッフの人たちである。 「一人の力は小さいが、皆で力を合わせると何でも成し遂げられる」というのは、聞き飽きたお決まりの臭いセリフだと思っていた。 しかしこれが皆で力を合わせた結果なのだと不思議な気持ちさえした。 NSKの取り組みを通して、僕自身多くのことを勉強した。 いやなことや、腹の立つこともたくさんあった。 音楽の世界以外の多くの人と関わった。 全く違う世界に住む人たちに触れ、違う考え方を見て驚くこともあった。 暖かい心に励まされ、再び勇気を引っ張り出す事もできた。 自分のエゴにはっとさせられることもあった。 そして今皆で一つの音楽を誠心誠意演奏していた。 すばらしい演奏会だったと思う。 さて、次に向かってまた0から始めよう。 そしてまた舞台に皆で立つ時間を楽しみに一つずつやろう。 その一日一日の積み重ねを日常というらしい。
・11,13、金 昨日の鍼が作用して朝起きても体がだるく、足を引き摺るように合唱団に行く。 鍼治療がこんなに次の日に症状に出たのは初めてである。 でも練習が終わり、正午を迎えたころには元気を取り戻していた。 午後の菖蒲池でのグループレッスンのために奈良に向かう。 菖蒲池駅に到着すると、一人の女性(30代半ばぐらい)が声を掛けて下さり、肘を持たせていただく。 改札を出ると工事をしていて、普段とは違う道を回らねばならず、彼女に声を掛けていただかなかったら難儀するところだった。 でも彼女は神経質そうで、ちょっと怖い感じ。 道すがら何度か話し掛けてみたが、短い返事しか返ってこず会話は成立しなかった。 「何処まで行きますか?」と尋ねるので「菖蒲池公民館までです」と言うと、彼女は黙って歩き続け、公民館の前まで来た時「こんなところまで来ていただいてすみません」というと「私のマンションは公民館の隣です」と言って去っていった。 レッスン前に生徒さんと話していて、ある有名パソコンメーカーに務めていた27歳の知り合いの男性が、会社で課せられるいじめとも言える仕事の量の多さに毎日眠ることができず、そこから欝病を引き起こし、抗鬱剤の過量摂取を続け死亡したという話を聞く。 そういう時、人はどうして仕事をほったらかして会社を辞め、自己を守ることができないのだろう。 負けまいとして何処までも頑張ってしまう。 日本人の、いやアジア人の気質かもしれないと僕が言う。 自分の人生と生活がまずあり、その手段として仕事があるはずだ。 でもそれが逆転してしまう罠がおそらく社会の中にあるのだろう。 レッスン後スタッフと、富雄の喫茶店で明日の100年会館でのNSKゲネプロの打ち合わせと、演奏の研究をする。 5時半になるとオーガニックのドリアを食べ、混声合唱団の練習に向かう。 明日も朝から松原の合唱団の練習に出て、その足で100年会館に向かうことになっている。 朝早く起きる日が続いているので少々寝不足。
・11.12.木 午後からの奈良クラスのグループレッスン。 その後富雄の鍼灸院に出向き、尾てい骨の痛みについて相談する。 脈を診た後で、痛みの原因についての先生なりの見解を説明下さるが、何だか難しくて理解出来なかった。 ようするに、体に張り巡らされている経絡の関係ということかな。 肛門近くの壺に鍼を入れて治療された。 その後、中国の鍼治療に捨血を行う作業があるが、これは鍼灸医の寿命を縮めるという話題になる。 患者から気を吸い取られ、治療しているものが少しずつ弱って行くという話だった。 でももちろん捨血治療は即効性があり、いろんな可能性を秘めているということだ。 あべのの先生はいつも捨血をされる。 それがどれだけ治療する側に危険を伴うことかを知って驚く。 「捨血だけではなく、鍼治療だって気を吸い取られます。 治療の方法を間違うと危険なのです。 鍼灸医は、皆60になるかならないかぐらいで死ぬ人は多いですね」 患者のために行う作業でありながら、自分の命をすり減らす仕事でもあるのだと痛感する。 それと共に、我々人間の「気」というものがいったい何なのか、目に見えないそんなものがどれだけの大きな意味を持つのか少しずつ興味を覚える。 夜はNSK奈良クラスの本番前最後の練習。 気合の入った集中した練習だった。 15日本番が終わると、12月からすでに来年に向けて活動を始めたいと僕から訴える。 まず春にまたファンドレイジングコンサートを企画して、秋の第九に備えなくてはならない。 続けて皆様に参加いただきたいとお願いする。
・11、11、水 午後のグループレッスンと夜のグループレッスンの間に、スタッフと話していて、僕が小学校2年の時に書いた作文の話になる。 下校後、盲学校のある千本北大路から、家の近くの洛北高校という停留所までの市バスをある日乗り間違えたのだ。 曲がるはずのないところで、バスは右折した。 目の不自由な小学校2年の子供には、それはとても怖ろしいことだった。 見覚えのないところに連れ去られて、二度と家に帰れないような気になる。 僕は驚いて前の運転手のところに行って尋ねた。 「このバスは洛北高校には行かないの?」「ボク、乗り間違えてるね、どうしようか」と言って運転手はその場にバスを止めた。 「ここから歩いてボクの乗る停留所まで戻れる?」「できない!」「困ったね」と運転手が途方に暮れていると、僕は言った「バスをここに止めておいて、運転手さんが僕をその停留所まで連れていけばいいねん」 車内がそこで大爆笑になったことを憶えている。 そのときは、何がおかしいのだろうと不思議に思った。 運転手も苦笑していると、前から別のバスがやって来た。 運転手は窓から手を上げてバスを止め、そのバスの運転手に僕を預け、僕の乗るバスが来る停留所まで乗せて行くように話を付けた。 次の日に担任にその話をすると、その時のことを作文に書かせた。 これが僕が生まれて初めて書いた作文だったと思う。 僕が付けた題名は「怖いバス」。 バスが思いもよらぬいつもと違う路を曲がって、見覚えのない路を走って僕を何処かに連れ去る恐怖を書いた。 学校内で何かに選ばれて、全校生徒の前で読んだ記憶がある。 その作文のことを最近ふと思い出して、母に「あの作文が何処かに残っていないかな?」と尋ねると「そんな作文書いた?そんなもんが残ってるかいな」とあっさり言われた。 母が憶えていないとは、ちょっと驚きだった。 それで後日担任の先生に何とかして連絡を取って尋ねてみようと思っている。 何十年ぶりに電話を掛けることになるのだろう。 大学を卒業したころ、何度か飲みに連れて行ってもらったことがある。 先生も今80歳半ばを超えておられるはずで、お元気かどうかも分らない。 今日は一日、小学校2年のころの暗く古い木造の校舎を思い出していた。 |一覧| |