『竜馬がゆく』より。竜馬とゆく9
【竜馬とゆく(竜馬がゆく/安政諸流試合)9】『桂には冗談が通らない。これほどの才人でありながら、あたまの構造が物の理を究めるほうにばかりするどくて、理外の世界のおかしみがわからなかった。』桂小五郎と竜馬の珍問答。こなた竜馬はおかしみが大きな魅力で作者はそれを「愛嬌」と称す。かなた桂は理には聡いが「おかしみがわからなかった」ようで、どうやら野暮をこえていたようだ。だから竜馬の瑣末な話に珍問答となるのは当然であり、逆に桂が人生の意義など説いたなら竜馬は大閉口したに違いない。さて、この「おかしみ」は人の度量でもある。『「天下に有志は多く自分はたいていこれと交わっているが、度量の闊大なること、竜馬ほどの者はいまだ見たことがない。竜馬の度量の大きさは測り知れぬ」西郷がそういうのだから、やはり竜馬はえたいの知れぬ顔をしていたにちがいない。』司馬さんは西郷を引いて竜馬を『えたいの知れぬ顔』と称しているが、それこそまさに竜馬の「おかしみ」から発していると思っていいのではないか。ときに話はそれるが、ここで注目してもらいたいのは『西郷がそういうのだから』のひと言である。数多の資料を出すでもなく、また決定的な一冊を示すわけでもなく、ただひと言『西郷がそういうのだから』というのだ。これはシビレる!司馬さんの西郷へのただならぬ想いが読んでとれるのだ。おそらく、中村半次郎が西郷隆盛を愛したように、司馬さんも西郷を慕い想ったのではないだろうか。歴史上の重鎮を、原稿というまな板にのせ絶品料理に仕上げた司馬さんをしても、西郷だけは『会ってみなければわらない』と言わしめた所以はここにあると思うのだ。そして西郷もまた「おかしみ」を持ち合わせた人である。『極度に大人な部分と、幼児のようなあどけなさが一つの人格に同居している』(三都往来)西郷の「おかしみ」の源はここにあると思う。さて、次は一服の清涼剤のようだ。『ふわふわとした風の吹きとおるようなたあいもない微笑で顔を崩しながら「坂本です。」』(江戸の夕映え)そう自己紹介する竜馬である。相手は千葉重太郎の妻 八寸。それにしても『風の吹きとおるような』竜馬の笑顔を想像すると、堆積した暑気をにわかに払い去ってもらったような気分になる。誠に涼やかな風だ。司馬さんの茶目っ気もゆったりとして、何とも爽やかだ。『これァ、いかん。わしがほれそうな婦人じゃよ』人妻の、しかも大恩人の妻に抱いた竜馬の感情である。もちろんその場限りだが、前後から、竜馬が剣の修行に打ち込むことによって(みだらな?)感情を鎮めたことを推察するに難くはない。余談であるがこれは竜馬が初めてナニを体験した後のことだ。司馬さんの構成や見事。茶目っ気がオツな按配である。こういう緩急により、長編をも一気呵成に読ませてしまうという訳なのである。