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映画と音楽とショートストーリー

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ミュトス!ミュトス!

ミュトス!ミュトス!

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2006年10月21日
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 それは会社の飲み会の2次会が終わった後だった。電車もなくなり佐藤隆は会社の先輩の高橋慶子と同じ方向だったので一緒にタクシーを拾うことにした。そのタクシーを拾うまでの間、慶子はしきりに携帯電話をかけていた。隆は慶子の話を聞くつもりはなかったが、慶子は酔って大きな声で話をしていたため、内容が全て聞こえてしまった。
「ねえ、どうしてきちんとお金返してくれないの?今度こそちゃんと返してくれるって言ってたじゃない!どうしてなの?ちゃんと約束守ってよ!ねえ!聞いてるの!返事してよ!今日は……今日は……帰ってきてくれるの?」
 始めは威勢が良かった慶子の声も少しずつトーンを落とし、終いには小さな子どもが母親に自分を捨てないようにと哀願するようなか細いものになっていった。
 隆はそうした慶子の会話を見慣れない風景でも眺めるように聞いていた。というのも普段の慶子はとても快活で仕事も良くでき、姉御肌な女性として周りから認知されていたからだ。もちろん、隆も慶子をそんな風に思っている一人だった。だから電話をしている慶子が、昼間のオフィスでテキパキと指示を出して皆をリードしているときと同一の人物であるとはとても思えなかった。
 気がつくと慶子の瞳にうっすらと涙が浮かんでいるのが見えた。慶子は話し疲れたのか、携帯を切り、泣いているところを見られまいと隆に背を向け、昼とはうって変わって廃墟か墓場のように見える高層ビルのアスファルトの壁をぼんやりと眺めていた。
 隆はどうすることもできず車道でタクシーをつかまえようとしていた。しかし人通りの少ない道のせいもあってタクシーはほとんど通りかかることもなく、かといって慶子に話しかけることもできず隆はタクシーどころか誰も通りかからない道の先にある信号機が青から赤へ、そしてまた青になるのをずっと眺めていた。
「ごめんなさい」
ふと気がつくと慶子がすぐ横にいた。
「なんだかみっともないところ見られちゃったみたいだね。このことは会社の人には言わないでね」
 慶子はそう言って泣いているのか笑っているのかわからないような不思議な笑みを見せた。
 隆はうまく声を出すことができず黙って肯いた。いつもは強気で決して明るさを失わない慶子は自分の涙を恥じているようでもあった。
「ねえ、少し歩かない?」と慶子は不思議な瞳をして僕を真夜中の散歩へと誘った。泣き腫らした慶子の瞳は、哀しさと妖しさが入り交じった独特の光を宿していた。先ほどの力を失った表情とはまるで別人のように思えた。
 慶子は隆の同意を得るまでもなく一人で歩き出した。隆はそうした慶子の不思議な力に引き込まれるように慶子の後を黙ってついていった。慶子は無言のまま一人で歩いていった。何か目的があって、その場所へ急いでいるかのようだった。こんな真夜中に、しかもかなり酔っているというのに彼女はどこへ向かおうとしているのだろう?隆は慶子のブラックのスーツが夜の闇に溶けてしまわないように、必死で慶子についていった。
 すると慶子はある場所で急に立ち止まった。周りにはただのビルがあるだけで、特に何か他に立ち止まるための理由があるよな場所には見えなかった。慶子はそこでなにか興味を引かれるものがあるかのように前方を見つめていた。
 隆は慶子の隣へ行き声をかけようとした。
 しかしその瞬間、慶子はまるで独り言でも言うかのように話し始めた。
「私ってさ、男運が悪いんだよね昔から。あいつともここで出会ったの。私、ここでナンパされちゃったの。バカだよね。すっごく話うまくて、適当にあしらおう思っていたのに、もうその日の夜にはあいつとホテルに行ってて……」
 隆は慶子の話を聞きながらどう相づちをうってよいかわからずにいた。
「ねえ、明日は仕事休みだよね」そう言って隆を見つめる慶子の瞳は妙な熱を帯びていた。
「ねえ、タクシーも来ないみたいだし、あそこで休んで行かない?」
 慶子が視線を移した先にはこじんまりとして落ち着いたシティーホテルがあった。慶子は再び隆の方へ視線を向けた。その慶子の瞳には抗いがたいほどの特別な力が宿っていた。ブラックのスーツに身を包んだ彼女は、夜の薄明かりの中に起立する死神のようだった。彼女に近づいていくことは自分自身を厄介な問題に投げ込むようなものだった。いやそれは考えすぎかもしれない。一晩のちょっとした戯れなどはその辺にどこにでも転がっているものなのだから。そんな風に考えていると、ある映画を思い出した。その映画は『
ファム・ファタール』。映画の中で運命の女に見入られた男は簡単に坂道を転げ落ちていった。しかしそうはわかっていても女の特別な力には抗えない。もちろん隆の置かれている状況はそんなたいそうな話ではない。要は職場の女性上司と寝るのかどうかという、ある意味ケチな選択に過ぎない。未来はあらゆる可能性に開かれている。今ここでとる行動がどのような場所へ隆を運んでいくのか見当もつかなかった。隆は決心をした。この程度のことで怖気づいてどうする。ただ前に出ればよい。そして死神が差し伸べた手にキスをすればいいのだ。そんなことを考えながら隆は慶子の方へ歩き出した。
 とその時、前方から車が一台やってきた。ほとんど車が通りかからなかったため、そのライトは二人の間に築かれた親密な空気を切り裂いていった。タクシーであった。空車の文字が光り輝き魔法の夜を一瞬凍りつかせた。
 隆は慶子を見つめた。彼女の瞳は先ほどからのしっとりとした熱をさらに増していた。隆は恐怖にさらされた少女のように慶子から目を離せなかった。
 しかしその時、慶子は車道の方へ歩き出し、ゆっくりと右手を上げた。タクシーは慶子のほうへ吸い寄せられるように滑らかに車体を舗道の脇につけた。そして後方のドアが開き、慶子は当たり前のようにそのままタクシーの中へ消えていった。ドアがバタンと閉まり、鳥が木の枝から飛び立って行くようにタクシーはすっと舗道から離れ、そのまま隆の手の届かないところへ慶子を運び去ってしまった。
 隆にはその光景が自分とは関係ない世界の出来事のように感じられた。まるで夢や映画の中のワンシーンのように。あるいはそれは本当に夢だったのかもしれない。隆は頬に夜風の冷たさを感じながら、それが現実の世界の出来事であったことをなんとか自分自身に納得させた。そして、酔った頭を夜風で少し醒ますように大きく深呼吸をして、タクシーの拾えそうな大きな通りに向けて歩き出した。


【今日の映画】
ファム・ファタール
ファム・ファタール





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Last updated  2006年10月21日 22時13分21秒
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