第四話 皇帝光臨(1)【 第四話 皇帝光臨(1) 】 その後のトゥパク・アマルの行動は早かった。 もはや彼は、巡察官アレッチェに、嫌疑の目をかけられていることを察していた。 敵が動く前に、早急に事を起こさねばならない。 しかも、決して情報の漏れぬよう、極秘裏のうちに。 故に、反乱の幕開けとなるトゥパク・アマルの最初の行動計画は、絶対的に信頼のできる極少数の者たちだけに明かされ、その者たちのみが実行犯として加わった。 たとえインカ族の同志たちにさえ、あのアパサにさえも、最初の行動は、その内容も期日も明かされてはいなかった。 一方、実行犯として加わった者は、トゥパク・アマルの従弟ディエゴ、腹心ビルカパサ、義兄弟フランシスコ、そして、甥のアンドレスだった。 また、背後から支えた者として、相談役ベルムデス、トゥパク・アマルの妻ミカエラがいた。 運命のその日、1780年11月4日…――。 その晩、トゥパク・アマルは、ロドリゲス司祭の招宴の席にいた。 ロドリゲス司祭とは、トゥパク・アマルがカシーケ(領主)として治めるこのティンタ郡在住のスペイン人で、また、トゥパク・アマルの旧師でもあった。 トゥパク・アマルもアンドレス同様、若き日にはインカ皇族や有力者のための、かのクスコの神学校に通っていた。 が、両親を早くに亡くした彼の就学以前の教育を担当していたのが、このロドリゲス司祭だった。 そして、この運命の夜、何も知らぬロドリゲス司祭は、スペイン国王カルロス三世の命名日を祝おうと、当地の代官アリアガとカシーケであるトゥパク・アマルを招宴の席に呼んでいたのだった。 トゥパク・アマルはスペイン人であるロドリゲス司祭の目を意識してか、上品な白い絹のシャツの上に、深い紺色の上下揃いの西洋風の衣服を身に纏っている。 そして、司祭を中央に挟むようにして、彼とあの代官アリアガとは、贅沢なご馳走の並べられたテーブルを挟んで向かい合っていた。 温厚な笑顔で二人の間をかわるがわる見渡しながら話す老齢のロドリゲス司祭の手前、トゥパク・アマルもアリアガも、一応笑みを浮かべてみせてはいるが、場に流れる空気はいかにも空々しい。 この代官は、トゥパク・アマルの再三に渡る訴えにも関らず、領民へのその非道な搾取を全く改めようとしないばかりか、その仕儀はいっそうの非道を極めていた。 自ずと、目前のアリアガを見るトゥパク・アマルの目は険しくなる。 一方、アリアガも、もう何年間にも渡って、この煩(うるさ)いインディオの存在に腸を煮やしており、トゥパク・アマルを見る眼差しには強い憎悪が宿っている。 とても料理に手をつける心境ではないのは、互いに同じだった。 ロドリゲス司祭は刺々(とげとげ)しい場の雰囲気を察して、笑顔でトゥパク・アマルに話しかける。 「最近、商売の調子はどうなのかね?」 恐らく、司祭なりに、無難な話題を選んでのことだった。 トゥパク・アマルは司祭の方に礼を払いながら、「まずまずというところです。」と、やはり無難に答える。 「ずいぶん遠方まで、頻繁に行商に出ていると聞いているが。 しかも、トゥパク・アマル殿、自らが。」 アリアガが、この時とばかり、探るように質問してくる。 恐らく、かの巡察官アレッチェから、トゥパク・アマルの動向を正確に把握するようにとの指令が、これまで以上の執拗さで出されているに相違なかった。 「行商に出るついでに、各地の様子も見て回っているのですよ。 それぞれの土地の代官殿がいかなる統治をなされているのか。」 トゥパク・アマルは淡々とした声で応じた。 それは事実でもあった。 もちろん、同志を募り同盟を結ぶため、などとまでは流石に言わないが。 アリアガは、以前にも増して肥満で膨らんだ顔面を、いっそう憎々しげに歪める。 ロドリゲス司祭は話の流れが良からぬ方向に進みはじめたのを察して、何か別の話題に変えようと言葉を挟みかけた。 が、アリアガの方が、言葉を放つのが早かった。 「で、各地の様子はどうだったのだ?」 その声色には、ありありと憎悪が滲んでいる。 「いずれの土地も、大差はありませぬ。」 トゥパク・アマルは招宴の場であることを一応踏まえて、言葉を選びながら慎重に答えた。 本当のところは、いずれの土地も代官による搾取は非道を極めているが、アリアガの治める当地ほど酷くはない、と言いたかったのかもしれないが。 それから、トゥパク・アマルは横目でちらりと、窓の方を見た。 すっかり日が暮れて、夜の闇が館を黒々と包んでいる。 トゥパク・アマルは赤ワインのボトルを傾け、「司祭様、さあ。」と、司祭のグラスにそれを注いだ。 その後、彼はアリアガの方にもボトルを向け、「おつぎしましょう。」と低い声で言う。 相変わらず激しい憎しみに燃える眼のまま、アリアガは無言でグラスを傾ける。 そのグラスに真赤な酒を注ぎながら、トゥパク・アマルの目が冷徹な光を放つ。 その酒は、まるで、おまえが領民から搾り取った血のようだ。 だが、領民の血肉の上に安穏としていられるのも、今、この時が最後になるだろう。 ワインを注ぎ終わると、トゥパク・アマルは静かな眼差しで司祭を見た。 親代わりのように自分に教育を授けてきたこの高齢の司祭には、深い感謝の念を禁じえない。 あるいは、これが今生の別れになるやもしれぬ。 トゥパク・アマルは、心の中で深く司祭に頭を垂れた。 それが合図であったかのように、ドアにノックの音がする。 「入りたまえ。」と、司祭がドアの方に声をかける。 ドアを開いたのは、あのトゥパク・アマルの腹心ビルカパサである。 ビルカパサは司祭の方に深々と頭を下げてから、トゥパク・アマルの方に視線を向けた。 「トゥパク・アマル様。 ただ今、館から使者が参りまして、クスコから急用のお客人がお見えとのことでございます。」 ビルカパサは用件だけを急ぎ伝えると、また、司祭の方に頭を下げ、素早く姿を消した。 トゥパク・アマルは司祭に向き直り、「申し訳ありませぬが、そのような事情のため、今宵はこれにて失礼いたします。」と、深く礼を払った。 もちろん、クスコからの使者などというのは、この場を抜ける計略のための口実にすぎないが。 司祭も、トゥパク・アマルとアリアガとの間に流れるひどく気まずい空気にそろそろ辟易していたため、半ば安堵の表情で頷いた。 「また、いずれゆっくりと話でもしよう。」 司祭の言葉に、トゥパク・アマルは深く頭を下げた。 「そのような機会がございますれば。 是非…。」 だが、心の中では、恐らくそのような日はこないかもしれぬが、と思いながら。 そして、アリアガの方にも一応の礼を払い、トゥパク・アマルは足早にその場を後にした。 それから数時間後、目障りなトゥパク・アマルがいなくなったロドリゲス司祭の屋敷で、たらふく料理を平らげたアリアガは、ラバに跨り家路についた。 腹心の5~6人の護衛官と、2人の黒人奴隷がその後につき従う。 すっかり夜も更け、人気のない夜道は静まり返っている。 南半球の11月は既に晩春だが、このティンタ郡は標高4000メートル近い高原の部落であり、この時期の夜はまだ冷え込みが厳しい。 アリアガは、一瞬、ぶるっと身震いした。 ロドリゲス司祭の屋敷は集落から少々離れた場所にあり、中心部のアリアガの館までは人気のない道が暫く続く。 道はビルカマユ川の谷を曲がりくねり、道端に立ち並ぶ柳やモイェの木々は怪し気な気配を漂わせ、妙に黒々とその影を浮き上がらせていた。 それらの木々の向こうには、領民の耕すジャガイモやトウモロコシ畑があるはずだが、夜闇の中に紛れて今は何も見えない。 風もなく、空気も溜まったように動かない。 辺りは気味が悪いほどに、しんと静まり返っていた。 アリアガはラバの上で、でっぷりと太った体を反らして体勢を整えた。 そして、この肥沃な3万平方キロの土地の代官であることに、改めて黒い腹の中でほくそえむ。 しかし、その反面、今宵は、それら道端の木々や畑から、何やら不気味な怨念めいたものが放たれているような気がして、どうにも落ち着かない。 アリアガは、憎々しげに前方を見やった。 今夜、あの生意気なインディオに会ったせいに相違ない。 人気のない夜道を進みながら、アリアガの脳裏にあのトゥパク・アマルの姿がよぎる。 背筋に嫌悪と憎悪の虫唾が走った。 あの増長したインディオを、このまま放置しておくわけにはいかぬ。 これ以上増長させる前に、何かひどい目に合わせてやらねばいかん。 アリアガは傲然と胸を反らせ、ラバに鞭をくれようとした。 その瞬間だった。 インディオの一群が草むらの中から、ばらばらと飛び出した。 反射的にギョッと身を固め、狼狽した眼を見開くアリアガの手から、ラバの鞭がこぼれ落ちる。 手綱を引き締める間も無く、矢のごとく飛んできた投げ縄に、その首が巻かれた。 次の瞬間には、アリアガは、そのまま縄ごと鞍から地に引き摺り下ろされていた。 首に縄が巻きついたまま地に伏し、驚愕して血走った眼で見上げるアリアガの前に、黒服に身を包んだ一人のインディオが進み出た。 アリアガの顔面が崩れるように歪む。 「おまえは…!」 だが、恐怖のためか、喉がひきつって声が出ない。 アリアガの全身がガクガクと震え出す。 トゥパク・アマルは、ただ無言でアリアガを見下ろしていた。 投げ縄の先端を握る大男のディエゴが、この強欲な代官の首に巻きついた縄をたぐりよせるようにして、そのままアリアガを固く縛り上げた。 その間に、棍棒を手にしたアンドレスとビルカパサが、アリアガの複数の護衛官たちをあっさりと倒し、無傷のまま縛り上げる。 アリアガに付き従っていた2人の黒人奴隷たちは、もはや抵抗する気力もなく、フランシスコに大人しく縛られるままになっていた。 すべては音も無く、しかも、瞬時のうちに行われた。 そのままトゥパク・アマル一味と捕虜たちは、道端の草の中に素早く身を潜めた。 トゥパク・アマルは鋭い目つきで夜空を見た。 星座の位置を確認する。 人目の完全になくなる深夜まで、時を待たねばならない。 それから、彼はアリアガの方に視線を動かす。 縛り上げられたアリアガは恐怖のため、不規則に顔面をピクつかせながら、目を血走らせてガクガクと震えている。 脂汗が顔面から、多量に噴出している。 相当に動転しているのだろう。 目の焦点も定まっていない。 トゥパク・アマルの目からは、もはやアリアガに対する冷ややかな眼差しは消えている。 確かに、非道で強欲極まりない代官だが、この国の状況を鑑みれば、決してこの代官だけが特別だったわけではない。 強欲な代官がひしめいているのがこの国の実情であり、且つまた、それらを公然と黙認し、圧政を敷くために利用しているのが、植民地支配の中枢を握る副王側近の権力者たちなのだ。 トゥパク・アマルは、再び、永年敵視し合いながらも、同じこの地を治めてきた代官の横顔を静かにうかがった。 脂肪で歪んだ蒼白な顔面は、今や弱々しく、哀れでさえある。 己がカシーケ(領主)を務めるこのティンタ郡の代官であったことが、今や不運だったと思ってもらうしかあるまい。 この反乱の幕開けのために、ある意味では、最初の犠牲者となってもらうのだから。 それから、トゥパク・アマルは、アリアガに付き従っていたがために、不幸にも捕虜として捕えられてしまった2人の黒人奴隷たちを見た。 恐らく、この強欲な代官に酷使され続けてきたのであろう。 ひどくやせ衰え、その表情には生気が無く、この状況に及んでも、もはや呆然としているのみで感情さえ殺してしまっているように見える。 彼ら黒人たちは、もともと奴隷として、アフリカからこの新大陸まで、はるばる白人たちによって連れてこられてきた者たちである。 インカ族さえも殆ど保護しようとする者のないこのアンデスの地で、黒人の彼らを保護しようとする者は更になく、言ってみれば、インカ族の者たちよりも、もっと酷い目に合わされ放置されているのが彼ら黒人たちと言えるかもしれない。 トゥパク・アマルの胸の内に、再び強い怒りが燃え上がる。 それはこの一介の代官であるアリアガに対するものというより、もっと統治機構の中枢に巣くう者たちに対するものである。 黒人奴隷たちの解放…――そのことも、決して忘れてはならぬことなのだ。 トゥパク・アマルは決意を秘めた瞳で、今は哀れに繋がれている黒人たちに、深い礼をこめた眼差しをそっと送った。 最後に、トゥパク・アマルは、捕虜たちと同様に張り詰めた緊張を滲ませながら、草陰に身を潜める同志の者たちに目をやった。 もはや後戻りできぬ道に進みだしたという決意の色が、それぞれの者たちの険しい眼差しにはっきりと見てとれる。 トゥパク・アマルは、周囲の闇の中に鋭い警護の目を光らせているアンドレスを見た。 緊張を滲ませながらも、恍惚とした気力溢れる若者の横顔だった。 蒼い炎の燃え立つような瞳をしている。 敵を倒す腕も、鮮やかなものだった。 心身共に逞しく成長してアパサの元から戻った甥の姿に、トゥパク・アマルは誰にも気付かれぬよう目だけで静かに微笑んだ。 心の中で、アパサに深く礼を払う。 そして、トゥパク・アマルは、再び、この後の計画を心の中で反芻した。 そう、代官殺しの大罪を犯した次に来るものは――。 決して、失敗は許されない。 反乱の最初の命運は、この数日間にかかっているのだ。 星の位置から深夜の12時を過ぎたことを知ると、トゥパク・アマルは低い声で「そろそろ参ろう。」と、出立の合図を発した。 ディエゴが頷き、アンドレスたちに目配せする。 アンドレスも無言で、力強く頷く。 決して人目につかぬよう、注意深く捕虜たちを引き立てながら、無言で深夜の道を進んでいく。 目的地は、トゥパク・アマルの屋敷のあるトゥンガスカの集落である。 トゥパク・アマルの屋敷に到着したのは、深夜の1時を回る頃だった。 松明の炎が燃える屋敷の門前で、トゥパク・アマルの妻、ミカエラが待ちかねたように出迎える。 美しいこのインカ族の才媛は、この夜も高貴で涼やかな、そして凛々しく男性的でさえある眼差しで、無事に戻った夫であり同志であるトゥパク・アマルたちを、優美な物腰で館に招き入れた。 ミカエラは捕われた代官を冷ややかな瞳で一瞥した後、夫に無言のまま「ひとまず上手くいったのですね。」と、目で合図を送る。 トゥパク・アマルも、静かな眼差しで頷き返した。 こうして代官アリアガは、トゥパク・アマルの屋敷の一室に監禁された。 トゥパク・アマルは、アリアガを捕えた窓も無いその部屋に、外から固く錠を下ろした。 そして、ドアの前には、ビルパカサがいつにも増して険しい面持ちで警護に当たる。 たとえ、インカ族の同志にさえも、アリアガの所在を明かしてはならぬ。 命運は、この数日間にかかっている。 秘密裏に、迅速に、手を打たねばならない。 そして、トゥパク・アマルは次の段取りのために、書斎に消えた。 代官が監禁された部屋の中では、かのアンドレスが見張り役をつとめていた。 ドアの隣に置かれた椅子に座る彼の傍らには、己の武術指導の師、アパサが授けた厳かなサーベルが光る。 アンドレスは、数本の蝋燭が辛うじて灯る薄暗い部屋の中に、縛られたまま蹲(うずくま)る代官にじっと視線を注いでいた。 アリアガは、今や、もはやショック状態のように、焦点の定まらぬ目でただ呆然と壁を見ている。 この代官のために、どれほどの貧しい領民が苦しめられ、命を奪われてきたことか。 今となっては哀れにさえ見える代官に向けられるアンドレスの瞳には、怒りと共に、悲しみの色が浮んでいた。 たとえこの代官を殺しても、失われたものは戻ってこない。 彼は、揺れる蝋燭の炎を見つめた。 否、そもそも今回の目的は、代官を殺すことではない。 その先にあることなのだ…――! トゥパク・アマルの計画を知るアンドレスの眼差しが、再び、思いつめたように険しくなる。 この代官の死は、いわばそのための道具にすぎない。 彼は、再び、惨めに頭を垂れている代官に視線を戻す。 思えば、この代官も哀れな運命かもしれない…。 そんなアンドレスの心を見透かすように、突如、その代官が彼の傍に擦り寄ってきた。 あの強面のインディオたちの中では、確かに、アンドレスはやや趣の異なる印象を放っていた。 どれほど鍛え上げられていようとも、華やかで柔らかな雰囲気は失われていなかったのだ。 文字通り絶体絶命の危機に立たされたアリアガにとって、そのようなアンドレスの姿が天使のごとくに映っても不思議ではなかった。 アリアガは必死の面持ちで、目には涙を溜めてアンドレスを見上げた。 「わしが悪かった。 領民のことを、もっと大事にすべきだったのだ。 それは、もう、よく分かった。 二度と領民を苦しめるようなことはしないと誓う! だから…だから、あの男に、トゥパク・アマルに取り成してはくれまいか。 せめて、命だけは、助けてほしいと…!」 アンドレスを喰い入るように見つめる代官の目から、涙が落ちる。 アンドレスの心がずきんと疼く。 しかし、彼は静かに首を振った。 「頼む! この通りだ!!」 代官は、アンドレスの足元の床に額を押し付けるように平伏(ひれふ)した。 アンドレスは、しかし、再び、静かに首を振る。 アリアガは、床に頭を押し付けたまま、泣きながら呻き続ける。 「本国スペインには、家族もいる! こんなところで…、こんな最果ての地で…命を落とすわけにはいかぬのだ!!」 もはや、それは一人の素の人間の、生の叫びだった。 アンドレスの瞳が揺れはじめる。 アンドレスは椅子から下りて膝をつき、肥満に膨れ上がった体を折り曲げて冷たい床に頭を押し付けているアリアガを両腕で起こした。 そこには、汗と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった弱々しい男の顔があった。 アンドレスは揺れる瞳でアリアガを見据える。 「アリアガ殿。 あなたのこれまで行ってきたことによって、あなたの今の悲しみと同じ思いをしてきた領民がどれほどいたことか。」 アリアガの両肩を起こしながらそう語る彼の声は、しかし、責めるような口調では決してなかった。 哀れなアリアガは、いっそう涙に歪んだ顔で呆然とアンドレスを見やっている。 「今、あなたは深く反省された。 そのことによって、もはやあなたの命運が変わるわけではないが、だが、あなたの魂にとっては、きっと良きことに違いありますまい。」 アリアガは意味が分かってか分からいでか、しかし、アンドレスの静かな声に諭されるように大人しくなった。 アンドレスは続けた。 「あなたが、スペイン人として、いや、真に人としての誇りをお持ちならば、己の成してきたことの責任として、この命運を受け入れることです。 あがけば、それだけ惨めになる。」 そう語る彼の声は、自らをも納得させようとしているかのようだった。 その時、ふいにアンドレスの背後で気配がした。 いつの間にか、トゥパク・アマルが部屋に戻ってきていたのだった。 いつからそこにいたのだろうか。 いずれにしろ、アリアガは、ひどくギョッとして泣きはらした目でトゥパク・アマルを見上げた。 アンドレスもハッと息を呑んで、抱き起こしていたアリアガの肩を放した。 「アリアガ殿。 わたしのかわいい甥を買収するつもりかね?」 トゥパク・アマルが淡々とした声で言う。 アンドレスは、何かいけないところを見られてしまったような、気まずい思いでトゥパク・アマルに無言で礼を払いながらアリアガの前をどいた。 が、アンドレスに向けられたトゥパク・アマルの眼差しは、決して冷たいものではなかった。 トゥパク・アマルは無言だったが、しかし、その瞳は静かな笑みを湛えていた、ようにアンドレスには見えた。 トゥパク・アマルはアリアガの縄をほどき、部屋の片隅のテーブルの方に連れて行って自分と向かい合わせに座らせた。 アンドレスは、所定の見張りの椅子に戻り、息を詰めて2人の様子を見守る。 トゥパク・アマルは手に持っていた一枚の書面とペンをアリアガの目の前に置いた。 「これに署名をするのだ。」 感情の無い声で、トゥパク・アマルが言う。 頼りなげに揺れる蝋燭の灯りにすかすようにして、ちらりと書面に視線を走らせたアリアガの顔色が、これまでにも増して蒼白になっていく。 アリアガは、改めて事の重大さに驚愕した眼(まなこ)で、眼前のインディオを見た。 トゥパク・アマルは、完全にあの能面のような表情である。 感情を差し挟む余地は一縷もない。 アリアガの表情が崩れるように歪む。 そして、再び、その代官は、喰い入るように書面を読み返した。 その書面は、アリアガの配下の会計係宛てのものであり、次のような内容であった。 『調達できる金を全て、集められる武器を全て、トゥンガスカの集落まで至急届けよ。 イギリスの海賊どもが海岸を荒らしているため、代官として手勢を多数引き連れ、直ちにアンデスの高原を下り、英国人の討伐に向かわねばならない。』 トゥパク・アマルは、アリアガの手元にペンを置いた。 「署名をするのだ。」 アリアガは、生唾を呑んだ。 単に、代官殺しをしようとしているのではない。 これは、反乱計画の一部なのだ…――!! 今更ながらアリアガは悟ったが、トゥパク・アマルの氷のような表情を前にして、もはや拒絶すれば直ちにいかなる目に合わされるかは明らかに思われた。 アリアガは、震える手で署名をする。 トゥパク・アマルは無言のまま署名を確認すると、用件を済ませたアリアガの手首を再び縛り、その部屋を後にした。 そして、翌日。 その書面は、すぐにアリアガの部下に届けられた。 もちろん、「イギリスの海賊が海岸を荒らしている」などという文言は、軍資金や武器を奪取するためのトゥパク・アマルの全くの作り話であった。 しかしながら、この時代、スペインにとってイギリスは、当植民地の支配権を狙う予断のならぬ敵国であった。 従って、書面を読んだアリアガの部下がその内容を信じ込んでしまったのも無理からぬことであった。 代官の部下たちは、これ大変と、早急に「アリアガの命令」に従った。 まもなく、2万2千ペソ(邦貨で約1,100万円)の現金と若干の金の延べ棒、75梃の小銃と多数の馬やラバが、トゥパク・アマルらの兵が待ちかねる指定の場所まで運ばれてきた。 運んできたアリアガの部下たちは、そのまま捕虜となった。 合わせて、トゥパク・アマルは密かに、最も信頼できる筋の近隣の同盟者たちへの呼びかけを開始した。 そして、インカ側に味方する反乱軍の兵を自らの領内に集めはじめたのだった。 11月8日。 アリアガが監禁されて4日が経った時、すっかりやつれ返ったその代官の前に、再び書面をもったトゥパク・アマルが現われた。 書面には、『ティンタ郡に住む全てのスペイン人、インカ族の者、混血児、そして黒人は、24時間以内にトゥンガスカの中央広場に出頭せよ』との内容が、したためられていた。 もはや抵抗する気力も失われ、半ば廃人のように虚ろな眼をしたアリアガは、トゥパク・アマルの差し出した書面に、言われるままに署名をした。 アリアガが署名したその書面は回状としてティンタ郡内の各村に配布され、すべての領民たちがそれを読み、あるいは、知らされた。 そして、翌日の11月9日。 無数のスペイン生まれのスペイン人、当地生まれのスペイン人(クリオーリョ)、混血児や黒人たち、そして、インカ族の者たちが、「代官アリアガの命令」のままに、トゥンガスカの集落に集まってきた。 ティンタ郡の当時の人口は約二万人と推定されている。 広大な中央広場は、大群集で埋め尽くされていた。 「代官の命令」によって集められた人々は、一体これは何事なのかと、皆目検討もつかぬまま、ただ顔を見合わせ、あるいは、あること無いこと噂をしては、不安そうな面持ちで事の成り行きを見守った。 そして、それら群集の中には、この地に住むコイユールの姿もあった。 アンドレスと同い年の彼女は今や18歳となり、貧しい農民の服装やおさげの髪型こそ以前と変わらず、また、体型も、恐らく栄養不足もあるのであろう、かなり華奢ではあったものの、その全体的な印象はすっかり女性らしくなっている。 まさしく「コイユール(インカのケチュア語で『星』の意味)」という、その名に相応しく、清らかな美しさを備えた女性へと成長していた。 飾り気の無い、清楚な控え目さが、かえって彼女の放つ澄んだ透明感を際立たせていた。 褐色の肌は瑞々しく、編んだ黒髪は艶やかに輝き、もともと端正なその顔立ちは、女性的な美しさを増している。 幼い頃から涼しげな二重(ふたえ)のすっきりとした目元は、年頃になり、その輪郭がくっきりと際立ち、全体的な清楚で清らかな風貌に、華やかな美しさを添えていた。 そして、何よりも彼女を特徴づける、あの年齢に似合わぬ慈愛に満ちた優しげな気配は、いよいよその深みを増し、その清い妖精のような雰囲気は、思わず人を振り向かせるほどになっていた。 それと同時に、姿勢の良い凛とした立ち居振る舞いの一つ一つに、意志の強さがうかがえ、しかし、それでいて、彼女の醸し出す雰囲気には、どこか悲しげで、儚げなところもあった。 そんな彼女もまた、「代官」からの回状を見て、この広場に急いで出向いてきたのだった。 それにしても、何という人の多さだろう。 息もできぬほどにごったがえした広場の片隅で、人々の波に呑みこまれるようにしながら、コイユールは新鮮な空気を求めて空を見上げた。 時刻は、まもなく午後2時を回ろうとしている。 爽やかに晴れ渡った晩春の上空を、一羽の巨大なコンドルが堂々たる翼を広げて自在に舞っていた。 コイユールはその姿に魅せられるように、上空に見入った。 その時だった。 広場の正面入り口の方で、大きなどよめきが起こった。 コイユールは、つま先立つようにしながら、色めき立つ群集の間から懸命にそちらの方を眺めやる。 そして、息を呑んだ。 どよめく人々の間を悄然と進みくるインカ族の兵に堅く守られ、白馬に跨り進みくるその馬上の人に、コイユールの目は釘付けられた。 集団の中央でひときわ輝きを放つその人物、それは、あのトゥパク・アマルだった。 トゥパク・アマルは、インカ皇帝の礼服である優美で豪奢な黒ビロードの服とマントを身に纏い、輝くような白馬に跨り、威風堂々たる物腰で広場中央に進んでいく。 初夏を思わせる爽やかな涼風に黒マントと漆黒の長髪をなびかせながら、精悍な横顔で前方を見据えて進みゆく彼の傍では、やはり格調高い黒服で正装した数名の側近の者たちが黒馬に跨り、トゥパク・アマルを警護している。 さらに、それら側近たちの後には、武装した大勢のインカ族の歩兵がつき従う。 コイユールは己の目に映る光景がにわかには信じられず、まるで白昼夢を見ているような感覚にとらわれた。 しかし、目をそらすことができない。 釘付けられたまま、彼女はその一団を見やっていた。 さらに、再び、コイユールは目を奪われた。 中央のトゥパク・アマルを守るようにして、そのすぐ傍らで黒馬に跨り進みくる凛々しい混血の若者は、紛れもなく、あの懐かしいアンドレスではないか――!! その姿を見るのは、もう3年ぶりくらいだろうか。 コイユールは胸に手を当てたまま、心臓が止まる思いで、その場に立ち尽くした。 一団はまっすぐに正面を見据え、呆然と彼らを見つめるコイユールのはるか前方を通り過ぎ、広場中央に組まれた壇に向かう。 壇の前までくると、トゥパク・アマルは白馬に跨ったまま壇上へと躍り出た。 真青な空を背景にして、トゥパク・アマルの纏った漆黒の礼服は、彼の逞しく引き締った肢体の輪郭をくっきりと浮き上がらせた。 その胸元では、かつてのインカ皇帝が戦時に愛用したのと同じ、太陽の紋章を象(かたど)った巨大な黄金製の首飾りが、午後のまばゆい陽光を反射して鋭い煌きを放つ。 群集の中から、深い感嘆の溜息が漏れた。 トゥパク・アマルは強い光を宿したその切れ長の美しい目で、壇上から、まるで集まった群集一人一人に礼を払うかのように見渡した。 これほどの大群衆が集まっているにもかかわらず、今、広場は怖いほど静かになっていた。 人々は恍惚とした表情で、息を詰めて壇上の人を見る。 午後の頭上からの陽光のせいだろうか。 コイユールは、あまりの眩しさに目を細めた。 まるでトゥパク・アマルの全身から、神々しいまでの白く輝く強い光が放たれているように見えるのだ。 トゥパク・アマルは静かな微笑みを湛えながら、群集に頷き返すように再び瞳で礼を払った。 それが合図であったかのように、傍に控えていた側近のディエゴが、豪奢な布に包んで持参した、黄金に輝く笏杖を掲げ持ち、それをトゥパク・アマルに捧げるように手渡した。 それは、代々インカ皇帝の皇位継承者に受け継がれてきた、まさしく、権威の象徴…――インカ皇帝としての証の笏杖であった。 トゥパク・アマルは片手で手綱を取ったまま、もう一方の手でその黄金の笏杖をしっかりと握り、そして、天空に向けて高々とその笏杖を捧げ上げた。 黄金の笏杖は、真昼の陽光を反射して、直視できぬほどの強烈な輝きを放つ。 トゥパク・アマルは、まるでその笏杖に誓詞を立てるかのように、まっすぐにその光輝く笏杖を見つめた。 それから、再び群集の方に、熱を帯びた視線を向ける。 群集は酔いしれるような恍惚感の中、輝く笏杖を手にしたトゥパク・アマルを、憑かれたような眼差しで見つめている。 トゥパク・アマルは一つ、すっと深く息を吸い込むと、群集を包み込むような眼差しになり、それから、穏やかな、にもかかわらず、非常によく通る声で、「皆の者よ、よくぞ集まってくれた!」と美しいケチュア語で話しはじめた。 群集の間に、強い興奮の色が沸き立つ。 その空気をさらに高揚させるかのように、トゥパク・アマルが堂々と力強く響く声で続ける。 「わたしは、亡きインカ皇帝トゥパク・アマル1世の直系の子孫、トゥパク・アマル2世である!! 我こそ、このインカの地の正当なる皇位継承者である!!」 トゥパク・アマルは力強く名乗りを上げると、燃え立つような眼差しで、群集を見下ろした。 広場中の大群集から、驚きと歓喜のどよめきが渦巻くように湧き上がる。 いっそう激しい炎を燃え上がらせた眼差しで、トゥパク・アマルはさらに続けた。 「わたしはインカ皇帝の末裔として、そなたたちインカの地に生きる者たちを守る義務がある!! 現在のこの国におけるスペイン人による圧政を、これ以上野放しにすることはできぬ!!」 トゥパク・アマルの話は、単刀直入であった。 さらに、彼は、スペイン人でも決して真似できぬ程の流麗なスペイン語で、同じように名乗りを上げた。 広場にいたスペイン人たちは、すっかりど肝を抜かれた表情で、驚愕と呆然との混ざり合った眼で壇上の人を見やっている。 広場中の数千人に及ぶインカ族の者、そして、同様に数千人に及ぶ混血の者たちは、「インカ皇帝」という響きへの激しい興奮と感動から頬を紅潮させ、トゥパク・アマルの方に一心に身を乗り出している。 トゥパク・アマルはこの機を見計らうように、白馬の手綱を引いた。 白馬が天に届くがごとくに高くいななき、それに触発されたように上空のコンドルが、トゥパク・アマルの頭上で優雅に羽ばたくと、天空に巨大な弧を描いて力強く飛び去った。 トゥパク・アマルは、再び、よく響く、力強くも美しいケチュア語と、あまりにも流麗なスペイン語とを交互に交えながら話しはじめた。 「皆の者に告ぐ! この地の代官アリアガは、その非道な暴政によって、この地の領民たちを散々に苦しめてきた。 永年に渡るその所業は、あまりにも目に余るものであった。 そして、その残虐な仕儀は、この度、ついにスペイン本国の国王カルロス三世の耳にも届いた。 それを聞こし召されたスペイン国王が、その外道な代官アリアガを処刑するよう、インカ皇帝の末裔であるこのわたしに命を下された。 従って、スペイン国王の名代として、このトゥパク・アマルが、明日、この時間、この場所にて、代官アリアガの処刑を執行する!!」 そして、トゥパク・アマルは炯炯たる眼差しで、天を見やった。 彼の眼差しの先には、この時間、まさに天頂に光輝く黄金色の太陽があった。 どこからともなく、群集の間から、「インカ皇帝、万歳!!」の掛け声が起こる。 すると、広場全体から、たちまち渦巻くような激しさで「インカ皇帝万歳!!」の連呼が上がりはじめた。 コイユールは、彼女もまた、恍惚の中にあったが、しかし、声も出ず、その嵐のような興奮の波の中に呑まれるように立ち尽くす。 人々の歓声の中、トゥパク・アマルはあのインカ皇帝の象徴、黄金の笏杖を再び天高く掲げ上げた。 午後の燃え立つような陽光を反射し、煌々としたまばゆい光が放たれる。 彼の胸元では、あの太陽の紋章が、笏杖の輝きと共鳴するかのごとく鋭い閃光を放つ。 トゥパク・アマルは再び誓詞を立てるように、光り輝く笏杖を、暫しまっすぐに見つめた。 そして、再び、歓声を上げる民衆に深く礼を払い、それから、ゆっくりと壇を下りた。 広場の出口に向かって兵たちを従え進みゆくトゥパク・アマルに道を開けながら、群集たちは嵐のような歓声で彼らを見送った。 コイユールは、身動き一つできぬままそちらを見守る。 はるか前方を、白馬に跨ったトゥパク・アマルが堂々たる風貌で通り過ぎていった。 そして、トゥパク・アマルのすぐ傍らを、艶やかな黒馬に跨り、見違えるように精悍な若者に成長したアンドレスが、しかし、同時に、あまりにも懐かしいあの横顔で通り過ぎていく。 (アンドレス…!) コイユールは、心の中で小さくそう呟くのが精一杯だった。 ところで、その広場で呆然と事の成り行きを見ていた当地のスペイン渡来のスペイン人の中には、この時のトゥパク・アマルの話の内容をおかしいと気付いた者もいたはずだ。 実際、アリアガの処刑をスペイン国王カルロス三世の名代として行うというのは、トゥパク・アマルの計略であり、作り話であった。 ただ、かつてトゥパク・アマル自身も判断に迷っていたように、植民地下のインカ族の者も混血児たちも、代官のような、直接、接触しているスペイン人のことは憎んでも、副王や、さらにはスペイン国王のような、目に見えぬ雲上の人のことまでは憎んでいなかった。 かえって、雲上の人は自分たちの味方なのだが、その善意、言ってみれば大御心を、代官などの下役人たちが邪魔しているのだと思いこんでいた。 トゥパク・アマルはそれを知っていたからこそ、大規模な反乱を成功させるべく民意をつかむためには、自らが「スペイン国王の名代である」という名目を掲げることが、反乱の戦略上、どうしても必要なことだと考えた。 トゥパク・アマルの説明をおかしいと気付いたスペイン人たちも、武装した無数のインディオを前にして、もはや騒ぎ立てるのを諦めるしかなかった。 こうして、ラテンアメリカの征服者たちを心底震撼させることになるトゥパク・アマルの大反乱は、ついにその幕開けの時を迎えたのであった。 その晩、いつものようにトゥパク・アマルの妻、ミカエラの用意した夕食を囲んで、トゥパク・アマル、及び、側近であるディエゴ、フランシスコ、ベルムデスは、明日の代官アリアガ処刑の段取りについて話し合った。 アンドレスやビルカパサは、これまで通り、アリアガの傍で警護に当たっている。 食事を済ますと、緊張感の中にも高揚感の滲むその場の雰囲気から、そっと逃れ去るようにトゥパク・アマルは人気のない館の庭に出た。 晩春の涼風が静かに吹いている。 やや霞みがかった夜空には、白い半月が粛々と浮んでいる。 随所に松明の焚かれた広大なその庭で、一人上空を見上げて立ったまま、トゥパク・アマルは目を閉じた。 夜露に濡れた新緑の草の香りがする。 今のところ、すべては順調に進んでいる。 だが、トゥパク・アマルの心の底で、何か微かに蠢(うごめ)くものがある。 彼はそれを振り払うように、強く瞼を閉じた。 「父上!」 不意に、幼い少年の明るい声が足元で響く。 目を開いたトゥパク・アマルの瞳の中に、まだあどけない笑顔を向ける息子の姿があった。 目の前にいるフェルナンド、彼の末子にあたるその少年は、今年8歳になったばかりだ。 少女のようなサラサラの黒髪、生き生きと澄んだ黒い瞳、そして、年齢に似合わぬ切れ長の美しい目元は、トゥパク・アマル譲りだろう。 フェルナンドは輝くような瞳で、トゥパク・アマルを見上げている。 「今日、広場で父上を見たとき、僕、父上のこと、とても誇らしく思いました!!」 少年はまだ幼い眼差しに、それでも深い敬意をこめて、父であるトゥパク・アマルをまっすぐに見上げていた。 トゥパク・アマルはフェルナンドの傍の草の上に跪き、愛しい息子の瞳を覗いた。 そして、その柔らかい少年の髪に、指でそっと触れる。 「ありがとう、フェルナンド。」 何かこみあげてくるものがあり、そのままトゥパク・アマルは息子の首に腕を回して、その胸の中に包み込んだ。 この幼い息子たちの命さえも、この後は、自らの手で危険に晒していくことになるのだ。 トゥパク・アマルの視線が、不意に館の方に動く。 彼はその姿勢のまま、アリアガが監禁されている部屋の辺りをじっと見つめた。 それから、フェルナンドをゆっくりと放し、「もう夜も遅い。中に戻ろう。」と優しく微笑み、息子をいざないながら自らも館に戻っていった。 館に戻ると、そのままトゥパク・アマルは代官アリアガの監禁されている部屋に向かった。 入り口では、変わらず険しい面持ちで警護にあたるビルカパサがいる。 トゥパク・アマルはビルカパサの労をねぎらい、錠を開けて部屋の中に入っていった。 中では、やはりアンドレスが、真剣な眼差しでアリアガの警護にあたっている。 トゥパク・アマルが、アンドレスの方に礼を払う。 アンドレスも、深く礼を払い返す。 そのアンドレスの瞳にも、深い悲愴感が滲んでいる。 恐らく、自分と似た心の疼きを感じているのかもしれない。 アンドレスなら、有り得ることだ。 トゥパク・アマルは静かな笑みをつくり、「少し休んできなさい。暫くの間、わたしがここにいよう。」と言う。 アンドレスもトゥパク・アマルの心を察したように、「それでは、暫く…。」と深く頭を下げて、そっと部屋を出て行った。 トゥパク・アマルは、改めて、囚われの代官を見た。 この数日、まともに食事もとらず、全く廃人のように呆然としたまま憔悴しきっている。 随分前から縄は解かれているのに、もはや壁の方を向いて、何日間も石のように座ったままだ。 トゥパク・アマルはアリアガに近づき、傍の床の上にその身を屈(かが)めた。 アリアガは、もはや反応一つない。 「アリアガ殿。」 静かな声でトゥパク・アマルが声をかける。 しかし、アリアガは壁の方を向いたままである。 トゥパク・アマルは、アリアガの生気のない横顔に見守るような眼差しを向ける。 そして、一瞬ためらうかのように一呼吸おくと、低い声で言葉を続けた。 「いよいよ明日、お命を頂戴いたします。」 その瞬間、アリアガの横顔が、いっそう硬直したように見えた。 「何か、言い残すことがありますれば、仕(つかまつ)ります。」 低い、静かな声で語りかける。 アリアガは無言だったが、その瞳が微かに、非常に微かに、揺れはじめる。 この男の体も、心も、まだ生きているのだ。 トゥパク・アマルの胸の奥が、激しく疼いた。 「明日、刑の前に、神父様とお会いください。 そして、本国のご家族に、あるいは、大切なおかたに言い残したきことがあれば、お申し伝えください。 必ずや、本国にお伝えできるよう、手配いたします。」 その言葉にアリアガは僅かに動き、無言のまま頭を垂れ、膝の上で拳を力なく握り締めた。 トゥパク・アマルはそのままの姿で、アリアガが何かを言うかと見守った。 しかし、アリアガは言葉を失ったように、押し黙ったままだった。 暫く待った後、トゥパク・アマルはそっと立ち上がり、アリアガの元を離れドアに向かう。 彼はドアのところで、もう一度だけ、アリアガを振り向いた。 そして、壁に向かってうなだれているその代官の背中にまっすぐ向き直り、無言で深く頭を下げた。 そして、いよいよ翌日の11月10日が訪れた。 代官アリアガ処刑の日である。 その日も初夏を思わせる快晴で、むしろ、雲ひとつ無いその日の空の色は、不気味なほどに蒼かった。 あのトゥンガスカの中央広場は、昨日にも増して多くの群集でごったがえしていた。 広場の中央には、既に処刑台が組まれている。 そして、その処刑台の周囲は、三列の兵士たちによって厳重に取り囲まれていた。 内側の二列は、武装した当地生まれのスペイン人と混血の兵たちで、彼らは、あのアリアガに署名させた書面によって奪取した小銃を手にしていた。 また、一番外側の列には鋭い目をした厳(いか)ついインカ族の兵たちが配備され、オンダ(投石器)と棍棒で武装している。 正午2時を回った頃、村の神父との面会を終えた代官アリアガは、告白も済ませ、トゥパク・アマルの側近ディエゴに伴われて、うなだれたまま広場に連れ出されてきた。 その2人を警護するように、インカ族の数十名の兵と共に、アンドレスとビルカパサがディエゴらのすぐ傍につき従う。 アリアガの姿が広場に現れると、領民たちがひしめく広場の空気に強い憎悪と嫌悪の色が滲む。 永年この代官の元で苦しみぬき、多くの肉親たちの命を奪われてきた領民たちの目には、これまで押さえ込んできた激しい怒りと憎しみの色が、もはやはっきりと露呈されていた。 群集に埋もれるように立つコイユールもまた、華奢なその手を思わず握り締める。 両親は、この代官によって命を奪われたのに等しい。 彼女の指が微かに震える。 彼女にとっても憎んで余りある代官ではあったが、しかし、今、目の前にいるその男は、なんと弱々しく、惨めな姿になっていることだろう。 もはやこの代官を殺しても、両親が戻ってくるわけでもない。 コイユールは揺れる瞳で、改めてアリアガを見た。 眼前にいるのは、一人の無力な人間にすぎぬのだ。 しかし、既に昨日からの強い興奮状態にある群集の怒りは、ますます高潮しながら激しく広場中を渦巻いていた。 よろけるように力なく歩む代官に向かって、一人のインカ族の民衆が石を投げる。 すると、それが引き金となり、広場のあちらこちらから、代官めがけて無数の石が投げ込まれはじめた。 傍にいたアンドレスがアリアガを守るようにして、すかさず己の身を呈して代官の前に立ちはだかった。 しかし、興奮しきった民衆は、さらに狂暴に石を投げてくる。 アリアガを守りながらも俊敏に身をかわすアンドレスだったが、まもなく彼の右目の下に鋭い石片が命中した。 遠くから見ているコイユールの目にも、アンドレスの顔面から血が滴り落ちるのが分かる。 コイユールは、全く無駄なことに違いないのに、「やめてください!石を投げるのをやめて!」と、思わず雑踏の中で叫んでいた。 そのコイユールの叫びに重なるかのように、広場中央の壇上から鋭い声が放たれる。 「やめるのだ!!」 トゥパク・アマルの鬼のような剣幕に、荒れ狂ったようになっていた群集がビクリと身を縮めて、その動きを止めた。 彼らは、恐れをなしたように、壇上の方を見る。 水を打ったように静まり返った広場の中央で、トゥパク・アマルはその切れ長の目元を吊り上げ、非常に険しい面持ちで群集を見下ろしていた。 彼は無言だったが、その目は、「制圧者と同じことをしてはならぬ!力を持たぬ者に、力を持つ者が不当な力を振るってはならぬ!!」と、訴えているかのようだ。 人々の手の中から、石つぶてが地面に落ちた。 ◆◇◆◇ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ第四話 皇帝光臨(2)をご覧ください。◆◇◆◇ ジャンル別一覧
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