慄きながら咄嗟に壁に目を走らせれば、剣は、いつも通りの場所に静かに立て掛けられたままである。
モスコーソは、安堵とも疲弊ともつかぬ、深い息をついた。
眠っている間に、首をどこかに打ちつけてしまったのに相違無い、と己を懸命に宥めながら、椅子からフラリと立ち上がる。
そのまま、重い体を引き摺って、ヨロヨロと窓辺に向かった。
窓外には、クスコの街を囲むアンデスの山々が見晴らせる。
しかし、その霊峰群を包むように広がる上空も、今は大量の血を流し込んだように、不気味にドス黒い色をしている。
「ええい!!」
モスコーソは吊り上った目元をわななかせながら、荒々しい足取りで机にとって返した。
そして、先ほど捻り潰した紙片をまた乱暴に取り上げ、さらにビリビリに引き裂いていく。
(このようなもののせいで!!
アリスメンディ…トゥパク・アマルめ――!!)
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≪トゥパク・アマル≫(インカ軍)
反乱の中心に立つ、インカ軍(反乱軍)の総指揮官。
インカ皇帝末裔であり、植民地下にありながらも、民からは「インカ(皇帝)」と称され、敬愛される。
インカ帝国征服直後に、スペイン王により処刑されたインカ皇帝フェリペ・トゥパク・アマル(トゥパク・アマル1世)から数えて6代目にあたる、インカ皇帝の直系の子孫。
「トゥパク・アマル」とは、インカのケチュア語で「(高貴なる)炎の竜」の意味。
清廉高潔な人物。漆黒長髪の精悍な美男子(史実どおり)。
≪モスコーソ司祭≫(スペイン軍)
植民地ペルー副王領におけるカトリック教会の頂点に立つ最高位の司祭。
単に宗教的な意味合いで高位に君臨する存在というだけでなく、植民地統治においても絶大な発言力を有する政治的権力者。
キリスト教の名を笠に着て、いかなる冷酷な所業をも行う一方で慈愛深げに振舞う、奇態な人物。
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(――……!!)
ハッと意識を取り戻したモスコーソが、ガバッと上体を起こす。
「なっ…な、な……っ?!」
頭はひどい眩暈にグルグル回っており、体はガクガクと震えが止まらない。
それでいて、全身には、グッショリと大量の汗が噴き出していた。
次第に鮮明になってくる意識と共に、己が執務室の書斎机に座っていることに気付く。
その机上の手元には、グシャグシャに握りつぶしたビラ紙が転がっていた。
(……!)
窓から薄く差し込む西日に目をやって、モスコーソは呆然と呟いた。
(ゆ、夢…?
あれから、うたた寝でもしてしまったというのか…?
そ、それにしても、何という悪夢…何という邪悪な夢じゃ……!!)
まだ激しい動悸の止まらぬ胸をギュウッと押さえ込んだ時、己の首筋からツッ…と生温かいものが流れ落ちた。
ビクリとして首に手をやって、またギクッと手を引っ込める。
――首に一筋の切り傷がついていたのだ。
そこに触れた手の平には、ベッタリと血糊がついている。
夢の中でトゥパク・アマルに押し当てられた剣の鋭利な感触が、脳裏に生々しくフラッシュバックする。
「な、な……っ…」
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漆黒の瞳の奥に蒼い閃光が走ったかと見えた次の瞬間、トゥパク・アマルの握る重厚な剣の切っ先が、司祭のたるんだ首筋にピタリとあてがわれた。
それは、先刻、司祭自身がアリスメンディに斬りつけた、あの聖剣と同じものであった。
今、その剣は、トゥパク・アマルの手の中で、直視できぬほどの眩い黄金色の覇光を放っている。
かたや、司祭は飛び出さぬばかりに目を剥いて、口から泡を吹きながら悲鳴を上げた。
「ひぃ…い……!!
な、何をするのじ…ゃ…!」
その司祭を冷徹に睥睨するトゥパク・アマルの能面のような表情が、濃さを増す闇の中に蒼白く浮かび上がる。
「あくまでお気持ちが変わらぬというのであれば、ご覚悟を決めてもらわねばなりますまい。
あなた様たちによって虐げられ、命を奪われた、民の深き悲しみと無念の刃、お受け頂くことになりましょう」
次の瞬間、トゥパク・アマルの手に握られた剣先が、己の首筋にさらに強く押し付けられる感触――!!
「ギャアアアアアアアア―――ッッ!!!」
モスコーソの半狂乱の絶叫が室内に反響した。
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反乱の中心に立つ、インカ軍(反乱軍)の総指揮官。
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インカ帝国征服直後に、スペイン王により処刑されたインカ皇帝フェリペ・トゥパク・アマル(トゥパク・アマル1世)から数えて6代目にあたる、インカ皇帝の直系の子孫。
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「とはいえ、できることならば、わたしとて、これ以上の流血は避けたい。
この先、副王陛下をはじめ、役人方々はもとより、あなた様ご自身も、ここに留まれば、その尊い御命が我が軍によって如何なる危険に晒されるか分かりませぬ。
願わくば、わたしは、これ以上、あなた様方を傷つけることはしたくない。
カトリック教会から破門されたわたしが申し上げるのもおこがましいが、もし司祭様が真のキリスト教徒として民の本当の御味方となられ、副王陛下や役人たちを説き伏せて彼らの圧制をやめさせてくださいましたなら、神に対してはかり知れぬ御献身を行うことになられましょう。
あるいは、それが叶わぬならば――副王陛下や役人の方々を連れて、あなた様方の本国に黙って戻ってはくださいませぬか?」
そう語るトゥパク・アマルの口調は誠実で、真摯そのものである。
だが、司祭の額には、はち切れぬばかりに青筋が立ち、頭に上った血でカッと顔面が赤く燃え上がった。
「何を気の狂った寝ぼけたことをほざいておる!!
副王陛下のなさりように、余が難癖を付けろと言うか?!
そもそも、この地も、民も、全て、神から託されたスペイン国王のものぞ!!
そして、国王陛下は我らに統治を委任されたのじゃ!
つまり、この国の全ては、我らのものなのじゃ!!!
それを、我らがすごすごと去るなどと!
トゥパク・アマル、いよいよ気でも違ったか!!」
胸の黄金の十字架を大きく揺らしながら、激昂してモスコーソが吠え上げる。
他方、暫しの重い沈黙の後、司祭を見下ろしていた伏せがちだったトゥパク・アマルの目が、険しさを増しながら次第に見開かれていく。
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反乱の中心に立つ、インカ軍(反乱軍)の総指揮官。
インカ皇帝末裔であり、植民地下にありながらも、民からは「インカ(皇帝)」と称され、敬愛される。
インカ帝国征服直後に、スペイン王により処刑されたインカ皇帝フェリペ・トゥパク・アマル(トゥパク・アマル1世)から数えて6代目にあたる、インカ皇帝の直系の子孫。
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モスコーソは大きく身を引きつつも、憎悪と憤激に全身を総毛立たせながら、魔人のごとく凄まじい形相で睨み上げた。
そして、血を吐かぬばかりに声を張り上げる。
「トゥパク・アマル!!
この悪魔……!!
全ての悪の根源め!!!」
対するトゥパク・アマルは、むしろ悲哀を切れ長の目元に宿し、静かに相手を見下ろしている。
「モスコーソ司祭様、あなた様のご忠告に背き、わたしはこの反乱を起こし、その結果、これほどの多くの血を流すこととなりました。
そのことに胸を痛めぬ時はございません」
「トゥパク・アマル…!
何を今さら!!」
「ですが、これまでのような副王陛下やあなた様方のなさりようが続けば、民の苦しみは増すばかり、のみならず民は全て死に果ててしまうやもしれません(註)。
そのようなことになれば、我がインカの神々は、決してあなた方を許しはすまい。
そうなる前に、この反乱を起こしたことを、わたしは悔いておりません。
ここまできた以上、スペイン国家に固く繋ぎとめられた足枷を断ち切り、その支配下から民を解放するまでは、もはや手を引くことはできません」
そう言って、トゥパク・アマルは僅かに目を伏せた。
そして、低く響く沈着な声音で、さらに続けていく。
(註:インカ帝国時代に1000万人を越えていた人口が、征服後間もない1570年には274万人にまで落ち込み、トゥパク・アマルが蜂起した頃の時代である1796年のペルーでは108万人になっていたとの推計が存在。)
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モスコーソの放った渾身の剣は、確かにアリスメンディの体に食い込んだはずであった。
しかし、まるで宙を斬ったかのように手応えがない。
驚愕している司祭を、微動だにせぬまま、無傷のアリスメンディが超然と見下ろしている。
硬直している相手の手から剣をスルリと抜き取り、黒衣の僧が冷ややかに言う。
「お忘れか?
これは夢だと申し上げたはず。
わたしの肉体は、この場には無い」
「ぐっ……」
動揺を隠そうと、ますます激しく牙を剥きかけたモスコーソであった。
が、その全身は、次の瞬間、さらにギクリと凍りついた。
眼前にいたはずのアリスメンディの姿に重なるようにして、別の人物の姿がそこに見えたのだ。
闇に溶け込む艶やかな長髪、長身に緩やかに纏った漆黒のマント、それらが風も無い室内に静かに舞っている。
白銀の覇光が全身を包み、濃い闇の中に、その姿を幻想的に浮かび上がらせていた。
コツリ、と冷たい靴音が床に響き、その人物がさらにモスコーソに近づいていく。
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≪アリスメンディ≫(名目上は英国軍)
イエズス会に属するスペイン人の高僧。
かつてはペルー副王領で布教活動をしていたが、スペイン国王から弾圧を受け、国外追放となり英国に亡命。
此度の英国艦隊に相談役として乗船し、再びペルー副王領への帰還を果たした。
アンドレスの父ニコラス神父の朋友でもあった人物。
≪モスコーソ司祭≫(スペイン軍)
植民地ペルー副王領におけるカトリック教会の頂点に立つ最高位の司祭。
単に宗教的な意味合いで高位に君臨する存在というだけでなく、植民地統治においても絶大な発言力を有する政治的権力者。
キリスト教の名を笠に着て、いかなる冷酷な所業をも行う一方で慈愛深げに振舞う、奇態な人物。
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「秩序や福音をもたらしに来た者たち自身が、いにしえより当地に生きる無辜の人々を、これほどまでに殺害し、酷使し、暴行を加えてきたという事実、それを正義と呼べるとは。
そなたの言う『好戦的で残虐極まりないインカ』は、あれほどに広大多岐に亘る国土や人民を治めて維持する秩序を編み出し、調和を保っていたというのに、我々は短期間に如何に多くの土地を不毛と化し、無数の人命を奪い去ってきたことか」
「うぬっ…!!
まだ言うか!!」
いつしか己の執務室の中に戻っていたその場所で、ドス黒いオーラを全身から撒き散らしながら、モスコーソは牙を剥き上げた。
と見るや、傍らの壁に立て掛けてあった聖剣をムズと掴み取る。
それを、すかさず鞘から抜き放ち、その肥満体でよくぞと思うほどの勢いで、頭上に猛然と振り上げた。
ブンッ!!と剣が唸って鉛色の鈍い光を放ち、アリスメンディめがけて体ごと突進する。
「失せろ!!
この化け物め!!!」
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植民地ペルー副王領におけるカトリック教会の頂点に立つ最高位の司祭。
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