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テーマ:韓国!(17020)
カテゴリ:映画
映画は金忠植キム・チュンシクによるノンフィクション
「実録KCIA『南山と呼ばれた男たち』」を元に再構成したもの。 但し、大統領殺害の動機を特定、限定あるいは 断定していない。 複数の可能性を提示し 「藪の中」のように謎めいた余韻も残す。 映画で描写されているように、 複数の動機、複雑な心理、複合的な要因による 事件として観ることで「大局的に」俯瞰も出来た。 イ・ビョンホン、イ・ソンミン クァク・ドウォン、イ・ヒジュン、キム・ソジン出演 ウ・ミンホ監督『KCIA 南山の部長たち 남산의 부장들 The Man Standing Next』 (以下、映画の核心に触れる部分もございます) 以前、「ダ・カーポの歴史」という筆者オリジナルの表現で 映画を評したことがあるが、 フィルム・ノワール的主人公描写に 今回は(筆者風に言えば)「マトリョーシカの歴史」と 小輪舞(ロンド)形式が重なり 近現代史のひずみが普遍的に描出されている感がある。 (以下、映画の核心に触れる部分もございます) 史実では「革命(5・16軍事クーデター)」に参加していない 金載圭=キム・ギュピョン(イ・ビョンホン)が 大統領(イ・ソンミン)を殺害する際に 「각하! 왜 혁명을 하셨습니까? 왜 우리가 목숨을 걸고, 혁명을 했습니까!?」と 「革命」を引き合いに出し 「革命の裏切り者」として断罪し下野を迫る。 5・16に参加もしていないギュピョンが思い描いた 「革命」とは何だったのだろうか。 映画は史実の忠実な再現ではなく、 史実と虚構のあわいに潜む普遍的真理を炙り出しもする。 魯迅「故郷」で主人公が再会した幼い頃からの友人との間には 埋められない断絶(この場合身分出自階級によるもの)があることに気づかされる。 年齢の差はあるが、同郷で軍隊も同期、 日本語の使用や創氏改名を強制された植民地時代に 育った世代という共通点もある。 むかしを思い出し、ある時はマッコリとサイダーを薬缶の中で 割って飲み、ある時は「あの頃はよかった」と日本語でつぶやけば 「あの頃はよかった」と日本語で返ってくる阿吽の呼吸、息が合った関係。 そこに映画は「革命」の同志という虚構の大義を挿入し 大統領とギュピョンの絆を強化し、 カタルシスの装置として畳みかけてくる。 隔絶され安全なアンガ(安家)の畳敷きの部屋は 大統領にとっては日本語の歌も聴いて寛ぎ (*本作では韓国語で歌われるが、 イム・サンス監督『ユゴ 大統領有故』では日本語で歌われる) 心の「故郷」のような場所、居場所でもあったはず。 そしてそれは、ギュピョンにとっても少なからずそうであったはずだ。 二人だけの歴史を回顧し、思い出が共鳴する居場所、 ふたりの歴史的絆はフィクションの設定で強化されていた。 しかし、「임자 옆에는 내가 있잖아, 임자 하고 싶은 대로 해. (お前の隣には私がいるじゃないか。したいようにしろ)」と 鷹揚磊落に言い放ち、忖度させておきながら、 後にはギュピョンを「友人を殺すような奴」と突き放し貶める。 あからさまに人間扱いしなくなる。 人身攻撃し人間以下のように扱う。 そんな無責任で冷酷、自己中心過ぎる最高権力者の一言は 「故郷」や「歴史」を共有する関係をぶち壊した。 二人の「歴史的」絆をも否定するような残酷すぎる一言だった。 「革命」を含めた歴史によっても結びつけられていた 繋がりはそうして断ち切られた。 「故郷」のような部屋に呼ばれギュピョンの代わりに 大統領とサシで飲むのは警護室長に代わった。 それは魯迅の「故郷」にも匹敵するような断絶、 そして絶望感だったに違いない。 そんな不実な言葉や態度もギュピョンに一線を越えさせた、と推測する。 ただし、それは個人的な憤怒だけではなく 歴史を都合よく修正しながら保身する権力者の不誠実さ厭らしさへの 拒否感や危機感も相まって その延長線上の表現として「革命の裏切り者」が飛び出たのだろう。 独裁者との同郷で歴史的な絆にとどまらず、 実際にはそれほど親しくなかったらしいもう一人の部長パク(クァク・ドウォン)も ギュピョンの同志・友人として描き、 「友人を殺すような奴」の導火線、 ギュピョンを追い詰める装置となっていた。 部長たち、の運命の明暗を貫くのは 輪舞曲の小ロンド形式(ABACA)だった。 映画の中でAにあたるのが 大統領の「お前の隣には私がいるじゃないか。したいようにしろ」 というフレーズである。 パクも嘗てそう言われ、大統領のお墨付きで手を汚しても 身分の安定は保証されたと思いきや 裏切ったと看做されれば追われ粛清される。 ギュピョンも同じ言葉をかけられたからこそ、 大統領の意を汲んで動いたのだが 結果は「友人を殺すような奴」と切断処理され、蔑まれる。 さらにギュピョンは同じ言葉=Aが クァク室長(イ・ヒジュン)にもかけられているのを耳にする。 A→B→A→C→A 曖昧な言葉ひとつで周囲を右往左往させ 下の人間を動かし殺人も教唆し、 最後は自分は知らない、と突き放して責任から逃れようとする。 韓国現代史の政変の一描写でありながら 日本の極右政権あるいは戦前の大日本帝国も想起するほど、 利己的で無責任、卑劣な独裁者の姿が小ロンド形式を通しても 普遍的な旋律で浮かび上がる。 そんな仮構の映画的反復が 暗殺前後40日に凝縮された事件の地平を 普遍的に押し広げてもいた。 他にも歴史的地層に思い至ったシーンは 畳に流れる血に足を滑らせて倒れるギュピョンの象徴的な姿。 日本による植民地支配の負の遺産をも引きずったような 歴史的絆で結ばれた大統領とギュピョンだが ギュピョンが滑らせた足の下には 血=軍事政権、権力者が流させた血があり、 さらにその下の地層には日本統治が影を落としているようにも見える。 フィルム・ノワール的瞬間に 歴史の地層を垣間見せるような映像。 ギュピョンも血を流させた側で その血に躓き、足を取られるという現実。 大義や義憤に駆られていても、 決して清廉潔白ではないことを象徴的に示唆するようだった。 また、同志・友人であるパクが命からがらパリ郊外に逃げ 気づけば片方の靴が脱げ靴下姿になっているシーンは 事件後南山か陸軍本部か運命の分かれ目を前に 足元が靴下だけと気づくギュピョンのシーンにリンクする。 靴がない=生きのびることはない、もうここで終わる ふたりの部長たちの運命の暗転を仄めかせる描写が 反復もされているよう。 一方で、彼らが中途半端に独裁者の独裁を終わらせようとしたことで もっと酷い歴史を招来してしまった未来まで垣間見える。 映画『タクシー運転手』の光州や 『1987』のソウルで描かれてもいたように 民主化運動で斃れた市民たちの多くの足に靴はなかった。 李韓烈の足からスニーカーは脱げ落ちてしまっていた。 文脈、状況は異なるにせよ 1979年に靴を履いていない男たち、 失敗し転落する部長たちの靴下だけの足は 1980年には始まる次の弾圧、より苛酷で暴力的な独裁を呼んでしまった 遠因であることを示唆もするようなオマージュ的反復にも思える。 その1979年の男たちの足元には 恐ろしい時代の趺音の予兆が重ねられ、 彼らのある種の失敗が尾を引いていることも示唆するよう (深読みし過ぎかもしれないが)。 1979年に起きた事件という歴史上の一点を超え、 第五共和国の扉も開けてしまった、 パンドラの箱を開けてしまった忸怩たる歴史観も 靴下の描写の反復から拡張現実のように観取した。 ギュピョンが大統領を殺害した動機は 個人的な憤怒や絶望に 義憤あるいは大義に駆られた部分も絡み合ったように 複眼的にも描かれていたが 結局、「火事場泥棒」のような次の独裁者を招来してしまった、 という歴史のアイロニーも示している。 朴正煕という独裁者のマトリョーシカの中からは 全斗煥という次の独裁者、より苛酷な軍事政権が出てきただけ、 というアイロニーも示され、 「マトリョーシカの歴史」も実感させられる。 ただ、それは1979年の韓国だけが抱える問題だっただろうか、 という深思もした。 民主化を求める市民たちによる釜馬民主抗争にどう対応するか、 大統領らが検討する会議の席で クァク室長の「カンボジアでは300万人以上殺している、 こっちも戦車を出して100万200万人くらい殺したって(拙訳大意)」という言葉には戦慄した。 (但し、上記発言は金載圭の主張のみに基づく) 同時代のカンボジア、ポル・ポト派の独裁者が齎す ジェノサイドに言及し参照しようとまでしている恐ろしさ。 民衆弾圧に躊躇がない独裁政権の闇、 箍の外れた感覚を余すところなく伝えている (その会議には全も同席していたはず)。 世界史的に見ればそれは、イデオロギーの違いを超えて 従わない者、目障りな者を排除する国家の暴力性が共通する。 しかも、自国民に限らない。 米国が南米の軍事政権に対しては軍事物資と資金援助で 支援をしつつ左派を弾圧して アルゼンチンでは3万人が死亡・行方不明になった「汚い戦争(1976~1983年)」、 米国政府が主導したチリ・クーデター(1973年)により 自由選挙で合法的に選出された社会主義政権が覆された事件なども 相似形として浮かび上がらせる。 Park is finished.のアメリカ側の論理、その言葉を 映画の中のギュピョンはどの程度の範囲で捉えていたのだろうか。 しかし、映画の中に「カンボジア」への言及が飛び出したことで 期せずして観客には(筆者には)アメリカのやり口をも喚起させた。 世界史的に俯瞰すればベトナムやキューバをはじめ、 American Imperialismに逆らう(と看做された)国は 悉く大国に介入され攻撃されてきた史実も想起させる。 中南米でもアジアでも米国に都合がよければ援助し 都合が悪ければ執拗に介入し攻撃するアメリカ帝国主義。 アメリカが冷戦・反共の橋頭堡に韓国を利用してきたやり方、 駐留米軍を引き上げると脅す恫喝的やり口、 そして家父長制的秩序を独裁者の元維持しようとする韓国も 一回り大きな米国中心覇権主義的家父長制的秩序に 雁字搦めに組み込まれ固定されていることも悟らされる言葉だった。 マトリョーシカの歴史、として次の独裁者を招来してしまった 暗殺の「失敗」面は、一方でアメリカ帝国主義のフレームから 自由に逸脱することは出来ない、冷戦下の硬直的世界に 共通する限界をも示唆し、 歴史の地層がさらに空間的にも時間的にも広がっている思いも かみしめながら観ていた。 家父長制的秩序の階段から転落した部長たちの一方で、 その暴力的統制とマクロで入れ子になっているのが 覇権国家アメリカ帝国主義、超大国がトップに君臨する家父長制。 従わない者は容赦なく切り、追い詰め攻撃する親分米国の下で 父親の背中を追うように同じような暴力で家父長制を維持する、 維持せざるを得ない冷戦構造、 その構造に磔にされたようなアジアや南米の国々の無力さ 選択肢のなさも沁みわたるよう。 (パク元部長が米議会に訴えたのも、 その冷戦構造ヒエラルキーを知悉していたゆえだろう) ミクロで見れば 大統領と部長たちサークルの関係性は一方で 小輪舞(ロンド)形式が重なり、 韓国現代史の視点ではその事件は パンドラの箱を開けて 「マトリョーシカの歴史」を作っただけだった。 マクロで見れば 普遍的な独裁者像も示しつつ、 独裁国家の構図に米国帝国主義の掌の上構造が重なり、 冷戦下のヒエラルキーに封じ込められた袋小路、閉塞感もにじませて、 部長たちの袋小路と革命変革や民主主義の袋小路も オーバーラップし合奏されていた。 虚実綯交ぜの「ファクション(Fact+fiction)」、 事件を再構築した演出には フィルム・ノワール的ミザンセーヌMise-en-scèneもブレンドされている。 スリーピースのスーツの下はカフスボタン付きシャツ姿で スタイリッシュながら硬い表情が続くギュピョンが 一瞬で感情を爆発させる激情的な姿からは マイケル・コルレオーネの佇まいも想起する。 やられる前にやるスタイルもマイケル流だった。 原作者キム・チュンシクのインタビューによれば 2016年に映画化したいと作者を訪れたウ監督は 『ゴッドファーザー』のように作りたいと思った、と 語っていたというエピソードも思い出されて。 時空を引き延ばして観ることが出来 歴史の地層を「大局的に」俯瞰させる設定、 虚構の文脈が挿入される一方で 心の拠り所、「故郷」を喪失したひとりの男の フィルム・ノワールとしても映像的に両立させている。 軍事独裁政権時代は禁書だったらしい魯迅も想起しながら考えた。 ポスターでイ・ビョンホンがヘッドホンを装着しているショットからは 『善き人のためのソナタ Das Leben der Anderen / The Lives of Others』を想起。 東ドイツのシュタージStasi(国家保安省)を描いた映画。 ウ監督とイ・ビョンホンは 『インサイダーズ/内部者たち 내부자들』以来 2回目のタッグ。 映画発の流行語!? 「モヒートに行ってモルディブを飲もうか」のアン・サング風ルックスで ピザを食べようとするイ・ビョンホンのCMもぜひ。 **マトリョーシカ(人形)/Матрёшка=ロシア名物、入れ子構造になった人形。 to be continued...!? buzz KOREA Click... にほんブログ村 韓国映画 にほんブログ村 映画 にほんブログ村 映画評論・レビュー にほんブログ村 韓国情報 にほんブログ村 K-POP にほんブログ村 Copyright 2003-2025 Dalnara, confuoco. 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Last updated
Apr 18, 2024 08:52:15 PM
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