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さて、そろそろケリをつけねばなりませんね。
宗教改革の時代を経て、それまでの「神の子キリスト」のイメージに縛られていたイエスの生涯が、「偉大な人間の記録」としての自由な解釈を許すようになってから、マリア・マグダレーナという女性像もまた、大きな変化をとげてきたようです。近代になって発見された初期キリスト教時代の古文書のうちには、はっきりイエスと結婚していたと解釈できる記述もあるそうで、「事実上、イエスの妻といっていい存在だった」と位置づけする向きも多くなりました。「ダ・ヴィンチ・コード」のように、彼女がイエスの子を生んで、その血脈を残したとする伝説に取材した小説や映画も現れるご時世です。・・・もちろん教会の反発はまだまだ厳しいものがありますけど。 ただ・・・イエスが結婚して、子孫を残していた、などという話には到底生理的についていけない、という方々のために言うならば、イエスと彼女の関係は、徹底してプラトニックなものであったと考えても、何らかまわないんですね。・・・もっとも重要なことは、彼女が残したイエスの遺伝子は、イエスの愛の教え、その精神、すなわち彼の「魂の遺伝子」に他ならないからです。 「わたしの国は、地上のものではない」こうイエスはいいました。地上における栄華とか、子孫を残すことも含めて一族の物質的繁栄とか、そういったことは彼にとっては何の意味もなかったのでしょう。彼にとって最大の望みはただ、自分の精神が誤りなく後代に語り伝えられていくことであったに違いありません。また、その人にとって、子供が必ずしもその魂の受け取り手にふさわしいとは限らないのですから・・・ 前にも書いたように、私はこの女性、マリア・マグダレーナを「キリスト教の母」と呼ぶべきだと思っています。彼女が目にした「復活」とは、ひとりの人を深く愛し、信じることによってはじめて自分の魂の中によみがえる、その人の遺伝子の存在を自覚したことだったろう、と私は信じています・・・そしてその遺伝子は、いまもあらゆるキリスト教信者の魂の中に受け継がれているはずです。いやクリスチャンならずとも、そこに流れるヒューマニズムの思想に影響を受けていない者はないでしょう。そして、かりに肉体は滅びても、その魂が愛する者の心によみがえり続ける限り、その生命は永遠であるということをわれわれに知らしめた彼女の存在がなければ、今日私たちがその偉大な遺伝子のおこぼれにあずかることは決してなかったはずなのです。そのことを考えれば、2人の間に子供があったかどうかなどは、全く些細な問題にすぎないことがわかるでしょう。 小説「ダ・ヴィンチ・コード」はこの女性を、イエスの血を受けたという「聖杯」の正体と位置づけています。それが果たして歴史的に正しいかどうかは読む人の判断でしょう。私にもちょっと異論はありますが・・・ただこのことは間違いなく言えます。この人こそ真の「聖杯」として、私たちの心の中に輝くにふさわしい存在であると。 FIN お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.11.18 21:10:41
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