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温泉場として知られるアーヘンでの静養を経て、ゲルマニウム温浴の効果かどうか?、奇跡のように現場復帰を果たしたヘンデルを迎えたとき、ロンドンの聴衆はみな真昼に化物を見た気分だったかもしれません。もちろん健康をとりもどしたからといって、彼と劇場をめぐる絶望的な状況はちっとも変わっていなかったわけですが・・・ただ、復活した彼の胸中には、たしかに何か新しい意欲が芽生えてきていたようです。
その当時の音楽は、使い捨ての消耗品、と前に書きました。ましてその当時はCDなんてものはなく、劇場に集まった聴衆たちにとっては、その音楽との出会いはまさしく一期一会・・・音楽は聴いた瞬間、その聴衆の心をとらえるものでなければなりません。といって、ありあまる天分に恵まれたヘンデルにとって、大衆に迎合して作品の質を下げるようなマネは、プライドにかけてもできなかったはずです。自分の音楽的良心にそむくことなく、しかもより単純に、明快に、より美しく、力強く。・・・それがヘンデルにとって、音楽のすべてでした。 復活後の新しい試みのひとつは、オラトリオへの転進でした。もちろんオペラを捨てたわけではありませんが、舞台装置などにかかる費用を削減でき、馬鹿高いギャラを要求するアリア歌手より合唱を重視したオラトリオは安上がりについただけでなく、ヘンデルの重厚な作風にも合い、またなじみ深い聖書の物語や英語の歌詞は、大衆にも親しみやすいという計算もありました。聖書に造詣深いジェネンズという詩人を台本作家に迎えられたことも幸運に働きました。 またこのころ、器楽曲の分野でも重要な展開がありました。バッハの「ブランデンブルク」とならんでバロック協奏曲の最高峰と呼ばれる合奏協奏曲集(作品6)と、オルガン協奏曲集(作品7)が出版されたのです。ただこれらもいわば劇場音楽の副産物で、オラトリオの幕間の余興として演奏するために書かれたものでした。作品6などは全12曲をわずか1月足らずで書き上げていますので、多忙な雑務の合間にほとんど即興のように書き飛ばされたわけですね。本来ならこれらも使い捨ての運命をたどったところですが、わずかでも印税収入が得られるというのが出版された理由のようです。現在の私たちがこれらの曲の恩恵にひたれるのも、ひとえに劇場の財政破綻のおかげ、ということになりますね(汗) こうしてヘンデルの新たな挑戦は幕を開けました。最初は聴衆の反応をみるようにおずおずと・・・しかし得意のポリフォニー合唱のなかに大衆の耳にはわかりやすいホモフォニーを大胆に取り入れ、またバロック時代にはあまり用いられなかったクレッシェンドなどのダイナミックな効果を多用するなど、つぎつぎに新機軸を加えながら、「サウル(1739年)」「エジプトのイスラエル人(1739年)」と、ヘンデルのオラトリオはやがて聴衆の中に静かなセンセーションを巻き起こしていきました・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.12.23 20:17:29
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