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カテゴリ:水のメモ
【移民問題の本質は文化摩擦】
日本への移民受け入れ政策の是非が議論を呼んでいる。
移民問題に関心が高く、諸外国の例を知る人々の間では「移民で成功している国家はない」という意見が圧倒的に多い。
事実、そうだ。
EU諸国では、移民が社会政策上の重荷になっている。
もともとの国民との間でも絶えずトラブルが起きている。
移民の受け入れで出生率の回復を期待した国々のもくろみはことごとく失敗している。

移民政策がこうもことごとく失敗するのはなぜだろう?
たぶんシンプルな理由だ。
それらの移民は、ほんとうはその国が好きでないからだろう。
ドイツ人になりたかったわけでも、フランス人になりたかったわけでも、アメリカ人になりたかったわけでもない。
その国で、仕事をみつけたいとか、よりよい社会保障を受けたいとか、ツールとしてその国に移民してきただけで、その国が好きなわけではない。
だから、自分の文化が恋しくて、その国に異文化を持ち込む。
自分たちだけのコミュニティを、ルールを持ち込み、その国になじもうとしない。

私はそういった移民の心情をむげに否定できない。
もちろん、受け入れ先の国民にとってはたまったものではない。
だが、これは当然のことで、やむを得ないことだとも思う。

移民を考えるときの基本は2つしかない。
異なる文化を国に招き入れるか、招き入れないかだ。
決して「異なる文化を認めるか、認めないか」ではない。
異文化は存在してよいものだ。
それを、国に招き入れる結果について、どう考えるかだ。

【なぜ、国境はあるのか?】
よく「国境がなければ戦争は起こらないのに、なぜ国境があるのでしょう?」という疑問を見かける?

この質問をする人たちは、元々この世界には国境などはなかったことを忘れている。
元々存在しない国境という概念を人類が「発明」したのには、何か理由があるはずだ、という点に気付かない。

そもそも「国境」という線引きがあるのはなぜか?
それは争いを避けるためだ。
国境線は文化の線引きである。
人はそれぞれ文化が違う。
生活習慣が、価値観が、宗教が、違う。
それは、気象、風土、歴史が大きく違っているために生じる必然の違いだ。
違う者同士は、争う。
相手の価値観を認めがたいから、争う。
文化を一方的に押し付けられたら、戦う。
それが、人類の争いの歴史だ。

争いに疲れた人々は「国境」という大発明をした。
似た文化の者同士が集まり、国をつくり、違う文化の者と線引きをした。
それが国境。
そして、国境の向こうにいる人々に干渉しないことをお互いに約束した。
おたがいが違うことを認め、共存する。
それが平和ということである。
違うことは悪くない。同じでなくてよい。だから、違っていても、お互い争わないで済むように国境があるのだ。

【価値観の違いをみとめつくすこと】
「世界平和」というありふれたスローガンがある。
とてもいいスローガンだ。もろ手を挙げて賛成したい。
そのために必要なのは「お互いに違うことを、みとめつくす」ということに限るだろう。
異なる価値観があってもいい。
認めがたい風習があってもいい。
対立する宗教があってもいい。
そういった「違う文化」が存在することを、徹底的にみとめて、違うことを尊重すること大事だろう。

肝心なのは「自分が相手の文化に染まる」ことでも「相手に自分の文化をおしつける」ことでもないということだ。
文化の押し付けは、文化の摩擦を生み、争いを生じさせる。
お互いが違うこと、違ってもいいことを、徹底的に認め、尊重する。
自分がその文化に飛びいらなくてもよい。
相手を自分の文化に巻き込まなくてもよい。
ただ、違うことを認め、それ以上は干渉しない。
それが、世界平和を成し遂げる、唯一の方法のように思える。

【移民政策とは、異文化=争いを招き入れること】
平和を希求する人々が作った文化の線引き。
国境。国家というコミュニティ。
その文化の線引きの内側に、異なる文化をわざわざ招き入れようという移民政策はなんだろうか?
移民に「自分たちの文化は捨てて、この国の文化に染まれ」とでもいうのだろうか?
それとも、国民に「移民たちの文化のために、自分たちの文化が多少損なわれても我慢しろ」とでもいうのだろうか?
どちらも、文化という心の中の大切な部分をあまりにも軽視している考えだ。
文化を、人の心の大切なものを、軽視しているからこそ軽率に「移民」という政策を掲げられるのだろう。

文化を軽く考えるから、文化の融合が簡単にできると錯覚し、争いを招くのだろう。
何度でもいう。
異なる文化同士は争う。
文化を失うことが不幸であるのと同時に、争いは不幸である。
しかし、人は文化を失いたくないから、戦う。
争いを避けるために、先祖たちは線を引いたのだ。
軽率に、文化の線を越えてはならない。

【捕鯨裁判にみる日本人の文化感】
文化といえば
捕鯨問題で、多くの日本国民が特に捕鯨する必要を感じていないのに、欧米人の反捕鯨に自然な憤りを感じるのは、それが欧米人の一方的な文化の押し付けだからだろう。
このように、違う文化を押し付ける者同士は争うのだ。
一方、日本はといえば、欧米人の狩猟文化上にある無計画で快楽的としかいいようのない狩猟(ゾウ、トラ、カンガルー、クジラ・・・)をはじめ、スペインの闘牛、中国や韓国の犬食を内心不快と思いながらも、「違う文化があることを尊重しなければならない」として、国際的にそれを非難したことはない。
すくなくとも、これまでの日本国民の態度は、国際平和の理念にかなっている。
こういった「国際常識」は、多くの日本人に普遍的に備わっているように思える。
思うに、文化が異なること、存在することを尊重するからこそ、日本人は移民政策に否定的になるのだろう。

日本人の異文化を尊重する精神が、国際社会で披露された一幕があった。

H26年4月。
豪州が日本が行う南極捕鯨の中止を求めた裁判で、国際司法裁判所は豪州の意見を認め、南極捕鯨の中止を命令した。
南極捕鯨に対する国際司法裁判所の結論は、簡単に言えば「日本がやっている捕鯨は、調査というには数が多すぎる」ということであった。
しかし、そうであれば、数を適正な水準に減らすように勧告するのが筋で、捕鯨中止(=禁止、再許可も認めない)は明らかに行き過ぎていた。
つまるところ、多数派を構成していた国々は「捕鯨という異文化を憎む」という豪州のエゴイズムにくみしていたに過ぎない。

この判決に先立つH25年7月。
国際司法裁判所における冒頭陳述で、豪州による訴訟の本質が、けっきょく「捕鯨文化を認めない」という欧米人のエゴイズムにすぎないと看破していた鶴岡公二外務審議官はこう述べた。
「我々は、大陸にまたがって70億人が居住する世界に生きております。そして、それらの人々が平和に共存するための唯一の方法は、我々の違いを尊重し,ある人々の特定の観念を他者に押しつけないことです。」

「我々は、我々以外の国民の文化を批判することはしません。裁判所長、異なる文化の間に優劣を決めなければならないとすれば、世界は平和ではいられないであろうことを、私ははっきりと申し上げたいと思います。」

外務省HPより

彼らは、一見、調査として適正か、を論じる裁判から外れているが、彼らの内心の偏狭さを鋭く貫いた鶴岡の堂々たる「国際常識」に恥じ入っただろうか?
この捕鯨裁判で、捕鯨中止を指示した国はイギリス、ドイツ、フランス、アメリカ、ニュージーランドと提訴国であるオーストラリア。
くしくもことごとく移民で国内問題を抱えている国々だ。
もしかすると、これらの国は、アジア人がいう国際常識に恥じ入るセンスがないから、移民政策で失敗をしているのかもしれない。





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最終更新日  2017/01/30 04:36:34 AM
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