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カテゴリ: *椎崎夕さん
椎崎夕さんの『水底の月』を読みました。
いわゆる遊郭ものですが、舞台となった場所柄、‘紅’ではなく‘碧’が美しく印象に残る物語でした。 特異な目の色をもって生まれた少年は、秘かに遊女として生きてきました。 ある日、異国からやって来た貿易船の船長が、女ではなく男を遣せと言い出した事から、少年は初めて廓を出て異国船が停泊する島へ渡る事になりました。 戯れに男を侍らせた異国の男は、やがて少年の本質に興味を抱き、そして手放し難くなっていきます。 遊女の子として生まれ、廓の奥まった場所しか知らずに生きてきた少年は、生涯初めて自分自身の意思というものと対峙する事となるのでした… 少年は、‘諦観’という事すらも知らない境遇に育っています。 その出自からすれば、あからさまな虐待を受ける事なく、むしろ恵まれた境遇だったとすら言えなくはないのですが、しかし一人の人間として‘自我’を知らずに生きている事自体が、現代の感覚からすれば不幸です。 ただ少年は、そういう時代のそういう境遇しか知らずに生きねばならなかったのだから、むしろそれが幸いだったのです。 ところが、外界から一人の男がやって来て、少年の生きる小さな世界を抉じ開けてしまいました。 初めは、単なる好奇心から。 自我や自意識を持たぬ人間が居るとは、異国の男には全く考えも及ばぬところです。 ところが、少年にとって自分の意思というものに意味はなく、何事も他者の意思のままであり、全ては自分の目の前を通り過ぎていくだけでした。 それが生まれてからずっと当り前の事で、感慨も疑問も有るはずがありませんでした。 だから反対に、本当の喜びも哀しみも知らないのです。 その為、他者からの好意も、少年には本当の理解が出来ませんでした。 馴染みの上客からは、おそらく望外の心遣いを得ていたはずですが、少年には全くそれは通じていなかったでしょう。 少年に、自分自身の本心を自覚する意識は、無かったのです。 そんな少年に対して、男は何の意識もせず、極あたりまえに少年の意思を問うてきました。 つまり、自分にも意思がある事を、初めて少年は知らされたのです。 そして少年の心に、相手をする男の、今までの客とは異なるひとつひとつが、刻み込まれていきました。 少年の内部に疑問が沸いてきて、やがて自我がはっきりとして、そして恋心を知るのですが、それからが切なくて切なくてなりませんでした。 少年は、初めて遊女という境遇に抗うようになるのですが、それでも男に対して自らの望みは一切告げず、ただひたすら相手の事を想うだけです。 もし、あのまま船を見送り、見世を換え、たとえ場末で息絶えても、その人生をひっそりと受け入れてしまった事でしょう。 きっと、何の悔いもなく、ただあの一時の思い出だけを、大切に抱きしめて。 男の本心は、割合早くから判るのですが、少年の為にもっと早くからはっきりと言えば良いものを…と、ちょっと焦れったくなりました。 もちろんこういう物語の醍醐味は、相手の心が顕わにならず切なくて苦しくて…というあたりにこそあるのですけど。 椎崎さんも、最後までたっぷりと、引っ張って下さいます。 だからこそ、終章の晴れ晴れとした読後感に、嬉しさがあるのです。 少年は、初めて少年らしく生きる事を許され、無邪気に喜ぶ事を知りました。 幸せに人生を全うできるように、海の向うに待っている彼の未来について、祈らずにはおれません… 物語の舞台設定は、作中で名をはっきりとは出さないものの、長崎の出島と丸山遊郭を想定している事が判ります。 椎崎さん御自身があとがきで仰っているように、あくまでも‘お伽噺’として愉しんだ方が風情があるとは思うのですが、何しろ出島という特異な場所である為、かえって興味が沸いてしまいました。 鎖国中の日本で、唯一の外国人居留地だった長崎の出島には、オランダの貿易会社の複合体の、いわば日本支店のような商館があって、商館長をトップに商館員や通訳や医師などが居住していたのだそうです。 そして、貿易船が入港するとその船長以下船員たちが上陸して、出島は異国の男で賑わう事になるわけですが、出島には一般人の立ち入りは禁じられていました。 当時、商館員も船員も、日本に来る為には夫人同伴を許されず、出島に立ち入る事が出来た女は、長崎の丸山遊郭から派遣される遊女たちだけだったのだそうです。 シーボルトの日本人妻であった「お滝」は、そもそも丸山遊女だったという説が、最近、シーボルトから請われて出島に入る為に、仮に遊女という立場(名づけ遊女)にした(本当の遊女ではなかった)という説の方が有力なんだとか… どうやら、出島という場所や相手となる男たちが特異な分、丸山遊女とは、たとえば江戸の吉原や京の島原の遊女とは違うところがあるようです。 簡単に検索しただけでも、出島でなければ書けない状況や風情がある事が判り、そして歴史的に残されているエピソードが、上手くこの物語に取り込まれている事が判りました。 少年を親身になって世話する、出島の商館長の日本人妻となっている姉遊女の設定が一番の例で、異国人との間に子を生む事やその子の養育についてなど、現実にもあった事のようです。 決して一夜妻だけの間柄だけではなく、子供が差別されないよう腐心した商館長の記録が残っているそうです。 また、少年がラクダを贈られるエピソードは、ある商館長が馴染みの遊女にラクダを贈って、ラクダは見世物小屋に売られたという実話に基づいたものと思われます。 その後ラクダは、日本中で興行して評判になったとか… シャイノベルズが、ひっそりと繰り広げた‘遊郭絵巻競演’も、橘紅緒さん、榎田尤利さん、そして椎崎夕さんと続いて終幕でしょうか。 なかなか面白い趣向だったと思います。 私個人としては、橘紅緒さんの物語の‘紅’の色味が、殊の外印象深かく残りました… 『水底の月』 2007年10月 シャイノベルズ 椎崎 夕 * 高階 佑 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.11.09 16:00:59
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