サム・フランシス展@東京都現代美術館
サム・フランシス展@東京都現代美術館パリのポンピドゥ・センターなどと比べてはあまりにも気の毒だけど、東京都現代美術館は極度に乏しい予算でよくやってるといつも感心している。新しいんで設備もいい。ただ残念ながら陸の孤島のようなところにあるんで、よほどじゃないとめったに行けない。今回は『サム・フランシス展』があるというんで意を決して出かけた。錦糸町からバスに乗らねばならない。そのわきに公園があって、これがじつにいい感じだ。緑のなかで深呼吸。いまではすっかり忘れ去られた存在になったが、サム・フランシスは昔からけっこう好きで、部屋に同じポスターを何年も貼り続けていたことがある。癇に障らないところがいい。そばに置いて何度見ても見飽きない。なんでも出光佐三がパトロンだったとか。今回の出品もすべて出光コレクションからのもの。たしかにこれなら金はかからない。東京都でもなんとかなる(笑)逆にそうした点が玄人筋には評判の悪いところなんだろう。世俗的・通俗的に見えるわけだ。が、この手の美術の玄人ってやつを私はこれっぽっちも信頼してない。セクト的で、一種のカルト集団のようなものだ。自分がいかに尖っているか、いかに最先端かってことばかりいつも自慢している。そんな「先端」なんか実際にはもはやどこにも実在しないのに。学校時代、頭が悪くて落ちこぼれだったもんで、そんな周回遅れの先陣争いでみじめなプライドを取り返そうとしている。そもそもタブローの時代はとっくに終わったよ。懐古的(あるいはポストモダン的)にそれを振り返り「編集」する時代さえ終わってしまった。私はたんに自分の眼を楽しませるためだけに時に絵を観に出かける。森や公園を散歩するのと大して違わない。日常ではなかなか出会えない線や面やヴォリュームや色彩に出会いに行くのだ。サム・フランシスは父親が数学者、母親がピアニスト&フランス語教師だったそうだ。ふつうのアメリカ人ではない。抽象絵画への傾倒はこうした家庭環境から来ているにちがいない。カリフォルニア大バークレー校で植物学を専攻。医学、心理学、東洋哲学(禅思想)などを学んだとか。とりわけ晩年はユングに夢中だったそうだ。へへえ、なるほどね。いわゆる「ニューエイジ系」のひとだったらしい。第2次大戦で戦闘機のパイロットになるが、敵に撃ち落とされて脊椎を痛め、1年ほど病院で寝たきりの生活をした際に、親切な美術教師の感化を受け、絵画に目覚める。このようにケガや大病で入院した経験は人間を変える。もともと理系で、植物学やら医学をかじっていたこと、飛行士として空から地上を眺めたこと、そこから撃ち落とされたこと、その後の1年間の寝たきりの生活。……これらのことと、かれの芸術は切り離せない。人間は肉塊や、血液や、細胞や、免疫活動から――そして恐らくは欲望やリビドーからも――出来ているわけだが、このことを微視的かつ象徴的に表現しているのがサム・フランシスの絵画だ。ただ「象徴」とは言っても思想的に深いところはまるでない。いかにも軽やかで明るい。ここらが好みの分かれるところだ。晩年のソニー・ロリンズのような、良きにつけ悪しきにつけ解放された情動の表現になっている。たとえば、初期にはマレーヴィッチの影響が強く見られるが、マレーヴィッチのような研ぎ澄まされた形而上学はまるで存在しない。せいぜいユング止まりだ。この手の屈託のなさ、明るさ、囚われのなさが、深刻ぶり神経症めいた前衛主義者たちには気に入らない。かれらは根が田舎者なので、知的なこととは深刻なこと、学校的なこと、国家的なことだと信じている。サム・フランシスはまぎれもなく知的な画家だが、暗く深刻なところはまるでない。そのせいで却って評価が低いのだろう。そこに氾濫する色彩や線や形象に身をゆだね、空にたゆたうような感覚にしばし時を忘れること、そうしたいわば「温泉感覚」が彼の絵の魅力だ。絵画と音楽が共に属する共感覚的なものにサム・フランシスは訴えかけてくる。それが心地よい。マティスがそうであったように彼の芸術は心地のいい肘掛けイスたることをめざしているのだ。*隣りで『舟越桂展』がやってたので、予備知識はまるでなかったが、ついでにこれも見物することにした。クスノキを使った木彫の半身像に大理石の目をはめ込んだ人物像がむやみやたらにたくさん並んでて呆気に取られる。いったいこんなのの何がおもしろいんでしょうか?中途半端にリアルだ。そもそも、どうしてこのひと半身像しか作らないのか? なんでみんなきちんと服を着てるのか?どうせリアルにやるんなら、いっそ全裸像を作るべき。きっとスキャンダラスで、めちゃくちゃおもしろくなるにちがいない。ユーモアも生まれる。ま、たぶん無理なんだろうな。徹底的にエロを抑圧したところにこの半身の人形像は成立している。みんなきちんと服を着せられている。これは真の芸術とはまったく逆の行きかただと私は思うのだが。エロの抑圧とはじつは自然の抑圧であり、クスノキという自然の素材にこだわっているからと言って、その作家が自然を理解しているとはかぎらないのである。**常設展示では「日本の美術、世界の美術…この50年の歩み」というのをやっていて、これもなかなか楽しめた。とりわけ池田龍雄って、もう相当な年のようだがひどく面白いな。ずいぶんいろんなジャンルを手がけているが、そのどれも完成度が高い。昔々『薔薇の葬列』にも出演していたとか。記憶にないなあ。とりわけ最近の線画が、なんだか奇妙な生物を描いていて、それがぬめぬめしてエロっぽくてひどくよい。楳図かずおみたい。こうしたエロい感覚がない芸術家なんてつまらない。というのも「エロ」とはそれまでの自分とは異なるもの、他なるものに生成し変容する感覚にほかならないからである。生成するピュシス(=自然)のなかで、それと一体になり、その惑乱のなかで子どもを孕むこと、それが「徳」というものだ、とプラトンは言いたかった。池田さんは文筆家としても知られた人のようで、やはりあの時代の前衛芸術家っぽい文章をあれこれ書いているようだが、それやこれやにかんしては長くなるので、また日を改めて書くことにしたい。2003/05/27 13:32:50ぐるりん、ぐるりん。@サム・フランシス2003/05/27 0:45:48にょろにょろ。@サム・フランシス2003/05/27 0:44:01目玉のような。だるまのような。@サム・フランシス2003/05/27 0:43:02月のような。細胞核のような。@サム・フランシス2003/05/27 0:23:28樹木を感じさせます。晩年の絵です。@サム・フランシス2003/05/27 0:21:24