ビデオ評/『魔王』『魚と寝る女』『ハリー・ポッター』
ビデオ評/『魔王』『魚と寝る女』『ハリー・ポッター』これらの映画自体はつまらなかったが、それについて思いつきを書きつらねているうち、興に乗って、あれこれ書いた。なかなか興味深い点に気づいたので満足している。しかし、こんなビデオの利用法はあきらかに邪道だな。たんに自分の発想のヒントにしてるだけ(笑)『魔王』★はっきり言って、すべてはナチスが悪いという発想の映画はもういい加減ウンザリだ。フランス映画に多い。いつぞやの『クリムゾン・リバー』もそうだったが、ものの考えかた――もっと言えば世界観が決定的に古いと思う。原作はあのミシェル・トゥルニエだから、そっちでは何か仕掛けが施されてあるのかもしれないが、この映画自体は単純素朴で、20世紀の戦争の真実について考えさせられる点がどこにもない。子どもを使った点が目新しいと言えば言えなくもないが、それにしたところで、純粋無垢な子どもという神話を信奉している人間でなければ感情移入するのは難しい。この主人公って、ほとんど児童性愛者じゃないか。ファシズムを生み出したような近代的な世界システムに自分自身が関与しているという痛切な感覚がフランス人にはない。実際には19世紀フランスこそがファシズムの起源だとする優れた研究がすでにあるというのに、いまだに自分たちは無実だというフリをしている。カマトトぶるのもいい加減にしろ。これにたいしてゴダール『愛の新世紀』は、フランスのレジスタンスの神話を容赦なく暴き、それを解体し、いま世界を覆いつつある顔のない「帝国」(アントニオ・ネグリ)の真の正体に迫ろうとしている。それにくらべ、この映画の牧歌的なことときたら。唖然とさせられる。ただ劇中に出てきた実物のトナカイは良かった。初めてまじまじと見た。よくあんな巨大なやつを見つけてきたな。それだけは感心した。『魚と寝る女』★もっと超常的な話かと思って期待したのだが、実際には、たんなる犯罪物だったみたい。韓国映画。韓国の「釣り堀」(?)がなかなか風流で、物珍しかった。雰囲気のある映画なんだが、それ以上どうたらというものでもない。犯罪を重ねた男女が結局どうなったか、最後がはっきりしない。全裸の女が水に浮いてるラストシーンも何が言いたいんだか訳が分からない。べつにこっちは中学生じゃないんだから女の陰毛(実際には水草)を見てもコーフンなんかしねえよ。なんか発想がとってもお下劣で、イヤな感じがした。これって、ある種、東洋的な感覚なのかもしれん。70年代の文芸的な日活ロマンポルノの雰囲気をどことなく思い出させるが、私、あの世界が虫酸が走るほど嫌いなんでパス。引かれ者の小唄でしかない。たんに表層的な感覚を使嗾するばかりで、この作家は描くべき主題を欠いている。たんに雰囲気だけで見せる映画で、退屈。雰囲気は主題とはならない。そもそも映画という表現ジャンルは、ほっておいても雰囲気を映し出してくれるもので、映画作家が真に努力すべきことは、雰囲気に流されがちな映像の流れに堅固な構造をあたえることだ。ここに映画芸術の本質がある。ここらのことがさっぱり理解できず、ひたすら感覚的な映像を洗練させて行くだけのタイプが昔も今も日本人には多い。最近では、岩井俊二とか。感覚的なものを客観化し、構造として切り取ることができて初めて映像は動きはじめるのだが、こうした人たちの映像はたんに流れて行くだけ。これは自分の生理を対自化できていないからで、この人たちは外見は大人の姿をしていても実際には幼児的な感覚世界を生きている。若いうちは同世代のツテで、それなりに仕事はあるが、なんせ自分の貧しい感覚を切り売りしているにすぎないので、すぐに飽きられ、ポイ捨てされてお終い。実際のところ替りはいくらでもいる。生々流転。すべては流れてゆくというわけだ。これはマンガ家の世界に最も典型的に見られるパターン。40代を過ぎても現役でやってゆけるのは自分独自の「構造」を創出した作家だけだ。これは構造というものに固定客がつくからである。ま、物理的に言って当然で、感覚は流れて行くばかりだが構造は流れない。固定化する。固定客は固定した構造のなかに自分自身の生のかたちを見るのでその作家を決して見捨てない。こうしたコアなファンを握った作家は強い。たとえば、私はよしだみほに大切な部分を握られている。それゆえコンビニで『馬なり1ハロン劇場』を見かけると、つい買わずにはおれない。もはや相当マンネリ化してしまっているが、ファンにはそんなことはどうでもいい。自分の琴線に触れる、あのいつも通りの展開を、すなわち、あの構造を反復してほしいのだ。で、期待した通りの展開と反復があり、うるうるする。満足する。麻薬と何ら変わりはない(笑)よしだみほは自分が演劇のファンなので、観劇の快楽が反復される構造にあることを熟知している。それが自分自身のマンガにも反映される。演劇にせよ、マンガにせよ、固定客を握ることが全てだと自覚しているのだ。これにたいして、一般的な不特定多数を狙うやつ、顔のない大衆の人気者になりたがるやつというのは、一瞬なにかの偶然でそれを達成することがあったとしても、たちまち忘れ去られる。固定客を掴めないからだ。なぜかと言えば自分自身の表現のうちに確固として太い線で描かれた構造が存在しないからで、そうした構造というのは徹底的に自分を見つめるところにしか析出されない。深い精神は自ずと構造を持つ。そして、いかなる構造も一般性を持つ。自分のうちに見出された構造は他者のうちにも必ず見出されると信じてよい。というのも人間ってのは結局のところ似たり寄ったりで、そう特殊な精神構造なんてやつは滅多にないからだ。多くの場合、自分の心の働きにたんに気づかないでいるだけ。優れた作家はそれを自覚し、それに鮮明な輪郭と構造をあたえる。自分自身では気づかないでいた、自分の奥深いところにある精神の働きとその構造を教えてくれた作家にたいして私たちは感謝と敬意の念を持つ。これがファンを獲得するということである。よって本物のファンが欲しいなら、徹底して自分自身になることが肝要である。ところが、ものが分かってないやつは逆に他人に向って迎合する。愛想よく自分を宣伝して回る。いわば営業するわけだ。そのときの「自分」とは誰もがよく知っていて、誰にでも受け容れてもらえるはずの世間一般によくある「自分」という商品である。事実、んなものは腐るほどある。いまさら誰も興味を持たない。たとえ一時的にもてはやされたとしても、一瞬にして忘れ去られる。むろん宣伝や営業も大事なんだろうが、まず中身がないのでは話にならない。宣伝してるうちにいつの間にか中身がついてくる、そんなバカげた夢のような話があるわけない。むしろ多くの場合メッキが剥げて正体が現われるものだ。さて、この「中身」というやつが大問題。上では「反復される構造」を強調したが、ひとことで「構造」と言ってもピンからキリまであって、たとえば『ゴルゴ13』のマンネリぶりのなかに深い精神を見出すなんて、とうてい無理に決まっている(ま、ついつい読んでしまうけど)。ようするに、反復されながらも何か新しい側面を開いてみせるような、生き生きと生成を続ける精神が構造の背後で生動していなければダメだろう。構造なき生成は感覚に流れ、生成なき構造はマンネリ化する。構造と生成が拮抗し合い、高い水準で強度に富んだ調和を実現し得た時真に輝かしい表現が現出する。これはマンガにかぎった話ではない。『ハリー・ポッター』★ビデオ化されたんで見てみるかと思い借りてきたが、最初の30分までであまりの退屈さに悲鳴をあげる。おいおい、何なの? これ。いくら子どもだましだからと言って、ものには限度があるんとちゃう?話はくだらなくても映像的に見どころがあるんじゃないかと期待してたが構図やカット割りのセンスが異様に古めかしい。ま、ある程度はわざとやってるんだろうが、にしても、全体として生彩を欠く。空中クリケットみたいな学内試合のシーンだけはまずまず楽しめたが。。。イギリスのパブリック・スクールのような魔術師学校の描写がとにかく生理的にダメだった。ハリー・ポッターってやつは誰もが認める魔法の天才なんだろ。それなのに何であんな旧態依然とした、せせこましい学校に入らなければいけないわけ? なんちうか、学校というものを過大評価する時代錯誤的な発想を感じてしまい、気分が萎えた。学校、きらい。たぶん学校というシステムに死ぬまで憧れ続けるようなタイプの人が世間にはいて、そうした人には映画のなかの魔術学校が得も言われず魅力的に見えたりするんじゃないだろうか。そうした人たちがこの映画のヒットを支えたのではあるまいか。どうもそんな気がする。自分は実際には劣等生だったけど、ハリー・ポッターのように文武に優れ、他のあらゆる人から愛され、認められる優等生のような気分を味わいたいと心の奥底で死ぬまで念じ続けるような素朴な人たちがたぶん世にはいるのだ。1番になりたくてしかたない。これまでの人生で1度として1番になったことがないので、1番になったら世界が変わる。幸福になれると信じている。そうした人々は1番になって認められるために会社で頑張り、異性に1番として認められるために頑張り、「1番になりなさい」と自分の子どもの尻を叩き、老いて死ぬまで世間からの承認を乞い願い続ける。自分のなかに確固とした判断基準がなく、自己認識もできないので、いつも他人の目を気にし、他人から評価されること以外に生きがいを感じられない。ようするに、他人の視線の奴隷にすぎない。そうしたぶざまで憐れむべき一生を送る人たちにとって、この映画は自分の愚かしい幻想を臆面もなく肯定してくれる、夢のようなファンタジーだと感じられるんだろう。げらげら。ところで、いまさら言うまでもないことだが、1番になるより、自分自身になることのほうがはるかに難しく、また、人生にとってはるかに大切なことなのである。2002/05/23 21:55:55ビデオ評/『サイダーハウス・ルール』『普通の人々』『サイダーハウス・ルール』★★カタカナ邦題だが訳すと『リンゴ園の掟』ということになる。名作とされているようだが、あんまり感心せず。孤児院で育った青年が、リンゴ園で外の世界に触れるという設定だが、なんだかありえない話を無理やり作っているような感じが…