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カテゴリ:私の真実
気がつけば1週間放置してしまった。(^^ヾ
前回の日記に書いた自らのメッセージ 「足りないものは何もない・・・」 ということについて、本日気づいたことがあったので備忘録として書いておきたい。 結論?から言えば 不足感や欠乏感から派生する願望は実現しない ということだ。 いくらビジョンを描いても、それが「ない」と思っていたら それはカタチになりようがない。 「ない」と思っているものは、スガタをあらわしようがない。 「ある」ものを観ない限り、それはそのカタチ、スガタを見せてはくれないのだ。 この屁理屈のような微妙なポイントは、うまく説明できないのだが・・・ そもそも 何かがない、とか、何かが不足している、という判断は、どこから来るのだろう。 比較や分析ではないのだろうか。 だから こだわりをなくそう ということは非常に大事で深いテーマだ。 くどいけど「ぎっくり腰」体験から。 ぎっくり腰を見ずに、完全な健康体を観た。 あの体験の要諦は、実は分析しなかったことなのかと今は思う。 「ぎっくり腰」である=健康体ではない という不足感、欠乏感がなかったことも重要なポイントだったかと。 私は実にシンプルに、それが「ある」ことを「知っている」完全なる健康体を観て、 そのスガタを自らにあらわしたのだということ。 決して何か足りないものを足したのでも、余計なものをひいたのでもない。 目の前のものを超えたところからのアプローチだったのかと。 これからもそんな体験を数多く味わいたいものだ。 人生課題を解決するのではなく、自らの望みをあらわす体験というものを。 ないものねだりをしても無意味。 そこにあるものを観ていこうと思う。 ないものなど実はなにひとつない。そのことを知っているか否かなんだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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