カテゴリ:チャネリング
コノハナサクヤ姫 【よろしくお願いします。優越感、劣等感が教育などで付けられていく性質のものであり、人の本質で持つ感覚でないのであれば、その感情は本来、人が生み出す感情ではないとなります。それにも関わらず、快、不快は、感覚として人が持つものであり、それを想起させる優越感などは、いい材料になります。驕りを持った時、人は落ちるといいますが、驕りは人を選別するものだとすれば、感情とは、人を選別するものだといえるのでしょうか。】 ほほほ、感情を抱くのは人だけではないにしろ、人の特徴のひとつよの。 他人と比べ抱くのが、優劣という感情じゃ。 本来、比べてそこに優劣などはあるまい、無理やり比べる故に、抱く思いじゃ。 一つを無理やり、はがす故に抱く思いということじゃ。 人の社会の仕組みは、そのはがすことで成り立つともいえよう。 元々、何もない所に、何かを生み出すこと、創造ともいえようが、 優劣も同じもの、生み出すには、はがすように、二つに分けておるということじゃ。 二つに分かれたものが、人の本質ではないとは言えぬよの。 創造と申したであろう、本質とは創造するものなのじゃ。 感情とて創造される故に、あらゆる感情を抱くことができよう。 人の社会は、そうして長い年月の間に、抱いたことのない感情を生み出すために 続いてきたとも言えよう。その感情の良し悪しには無論、関係はない、 善悪の感情もしかり、正義、悪の感情もしかりじゃ。 だが、それでは人の本質は成長せぬ、創造が成長できぬということじゃ。 あらゆる感情が創造可能とはいえ、二つにはがすだけの創造では、創造力も成長できぬ。 粒子がぶつかり、消滅すると同時に光を放つように、 消滅という過程を伴わぬ創造では限りがあるということじゃ。 社会の停滞とはその限りが極まったということよの。 極まれば、消滅することが、一つの創造の過程であることが自然の理となろう。 【驕りは選別でしょうか。】 驕りによって生み出すものはなんじゃ、 それを考えればよいのじゃ。 さらに優越を強めるだけじゃ。 消滅もせず、創造もない、故に己の成長はそこで止まるのじゃ。 止まれば、飛べぬ鳥のように、地に落ちるだけよの。 成長とは、創造の力をつけるということじゃ。 消滅させる力をつけることが成長と言えよう。 社会はあらゆる感情を生み出す場じゃ。 そこにはあらゆる感情と感情のぶつかりあいがあろう、 それは消滅を誘い、あるものは消え、またあるものは生まれるのじゃ。 ぶつかりあい、光を出さぬのであれば、まだ力は足りぬということよの。 その機会は誰にでも平等にあるということじゃ。 【ありがとうございます】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012年08月15日 21時46分52秒
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