カテゴリ:森田理論の基本的な考え方
先日テレビで偏差値教育の弊害について討論していた。
偏差値の高い人でないと合格しない大学・学部として東大医学部の話があった。 ここに合格するためには偏差値が70後半から80以上ないと難しい。 合格するためには、小さいときから他の事を切り捨てて受験勉強だけに取り組まなければ難しいそうだ。さらに、その目的達成のために、受験勉強のコツを掴む必要がある。 そこにフォーカスできたものが栄冠をつかむことができる。 問題点としては、雑多な経験や人間関係のコツの習得は蚊帳の外になる危険性があるということでした。東大医学部を卒業した人が日本の医療をけん引する医者になれるかと言えば、それは大いに疑問だということだった。 例えば、天狗のような人で、臨床医としては不適格な人が出てくる。 病院内では協調性がなく、他の人との会話がかみ合わない人がいる。 院長に祭り上げられても、リーダーシップが発揮できない人もいる。 さらに人の体に触ることができない。血を見るのが恐ろしい。 たびたび医療事故を起こす。それをごまかす。 つまり医者としてというよりも、人間として問題のある人を輩出しているというのだ。 私はここで疑問がわいた。 でも小さいときに、自分の進むべき道を見つけて、努力精進する姿勢は立派なのではないか。 例えば、イチロー選手は小学生のころからプロ野球の選手になることを目標にして、努力精進したおかげで立派なプロ野球選手になれた。 小さいときから、将来の目標を持ち、わき目を振らないで、突き進むことはよい事なのではないか。東大医学部に合格した人は、受験勉強の勝利者として称賛に値する人なのではないか。 少なくとも、非難される筋合いのものではないのではないか。 では何が問題なのか。 一人の人間としてみた場合、一分野では突出した能力があり、成果を出している。 それだけみれば、まぎれもなく人生の勝利者である。 しかし普通の人間として、当然身に着けていくべきさまざまな課題については、取り組む時間的ゆとりが持てなかった。目標の達成や効率を最優先したために結果として不完全な人間として成長してしまった。今となっては取り返しがつかなくなったしまった。 それが成長したときに、生きづらさや人間関係の問題としてでてきているのではないか。 人間としての、調和、バランス面の不具合が露見してきたのではないか。 人間として生まれたからには、どうしても身に着けておくべき課題があると思う。 私は次の3点は人間として身に着けておくべき重要なポイントではないかと思っている。 ・自分の身体を大切にし、心身ともに健康体として成長させること。 ・親への依存から脱却して、経済的、精神的にも自立して生きていける人間になること。 ・他人、所有物、自然を活かして大切にできる心優しい人間になること。 私が森田理論で学んだことは、次のようなことです。 ・生の欲望の発揮に重点を置いて生活すること。 ・不安を大切に取り扱うこと。 ・生の欲望を暴走させないために不安を十分に活用すること。 ・「かくあるべし」を自分、他人、自然に押し付けないこと。 ・事実には素直に服従する態度で生活すること。 人間として偏差値を高めるための挑戦は決して責められるものではないと思う。 ただ、今あげたいくつかの視点も軽視するのではなく、人生90年を生きていくための必須科目として学んでいく必要があるのではないか。 雑多な経験、ミスや失敗、人間関係の対立を経験することが、将来の糧になるような学習や体験が必要なのだと思います。 自分の夢や目標に向かって挑戦するとともに、これらにも興味や関心を持ってバランスのとれた人間として成長することが大切になると考えます。 効率重視でバランスを無視することは、後々取り返しのつかない弊害を生み出すことは間違いないようです。バランスや調和を無視すると弊害が多すぎるということだと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.02.22 06:20:05
コメント(0) | コメントを書く
[森田理論の基本的な考え方] カテゴリの最新記事
|
|