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カテゴリ:クルマ、F1など
皆さん準備はいいですか?
では・・・・ 黙祷ー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ もう、お分かりですよね。皆さん。 5月1日が何の日か・・・・・ 忘れない、あの日、世界中が悲しみに包まれたことを・・・・ あの日、私たちは一番大切なものを失ってしまった・・・・。 アイルトン・セナ・ダ・シルヴァ没17年 生きていれば51歳です。 生きていれば・・・・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ とゆーわけで今日はセナの愛車、名バトル、裏話、それらの動画を中心にMP935Tの少ない知識で進めたいと思います。 1.貴公子、F1までの道のり セナがモータースポーツに参加し始めたのは父親から手作りのレーシングカートが始まり。 近所のカート仲間とジャンケンでグリッドを決めてレースをしてたそうな・・・・ その時についてセナはこう証言している。 僕のカートだけ手作りだからポールからスタートさせてくれたんだよ!スタートして3周はトップを走ってたけど4周目にとうとう抜かれてしまって後は周を重ねるごとに抜かれて結局ビリだったんだ(笑) それでも充分に楽しかった。 何より「なんの制約もないレース」というのが懐かしい。 叶うなら1978、1979年に戻りたい。 そしてブラジル代表として世界大会で優勝。 世界に名を知らせる事となる。 2.デビューイヤーの大活躍 そしてトールマンでデビュー。 TG184 セナは(当時表記では「ダ・シルバ」) 雨のモナコGPで決して速くないトールマンのマシンでマクラーレンのプロストを追い回し、二位入賞!! その時の映像↓ ↑音量注意 雨のが強すぎてレッドフラッグが出なければ優勝してたでしょう。 3.Team LOTUSでの三年間 セナは翌年は名門ロータスでデビュー LOTUS 97T RENAULT 小さくてスミマセン・・・ 天候変化の激しい、ポルトガルGPでポール・トゥ・ウィン!! ヘルメットにも「John Player Special」のロゴが入りました。 LOTUS 98T RENAULT 翌年は前年の活躍が響いたか小型モノコック化、予選用エンジン搭載のQカー 新ルノーエンジン、「EF15B」 など、全面バックアップをしてもらえるが、ウィリアムズの「Hondaパワー」とルノーエンジンの信頼性の低さから PPは8回、(獲得率50%)になるが優勝は前年と同じ2回 セナだけでなくチームの一部の人間から「ホンダエンジンの要求」が高くなっていきました。 CAMEL LOTUS 99T Honda そして日本人初のF1ドライバー、中嶋悟デビューと同時にフジテレビでF1中継が始まった1987年、 ロータスはメインスポンサーを前年のJPSからCAMELへスイッチ。 「セナ」と「中嶋」という絵に描いたようなコンビでした。 そしてこの年、セナは念願のHONDAエンジンをゲット。 Honda製1500cc、V6ツインターボが積まれました。 しかし! この年ロータスが投入した「アクティブ・サスペンションの熟成の低さが裏目となり、優勝はモナコGP(セナ、ホンダモナコ初優勝)とデトロイトGP の二回でシーズンは幕を閉じ、ロータス・アクティブもお蔵入り。 モナコとデトロイトの優勝は(現時点では)ロータスにとっての最後の優勝となってます。 そしてセナはチームを去ります。 4.セナ、ついにマクラーレンに! 1989年、セナはとうとうマクラーレンに移籍。 空気抵抗を考えた低いノーズとホンダ製V6ツインターボを積んだMP4/4をドライブ。 チームメイトは最大のライバルアラン・プロスト。 Marlboro Mclaren MP4/4 ターボエンジン燃料制限などの規制が厳しい中、二人のドライバー、シャーシとエンジンのマッチングがバッチリだったこの年のマクラーレンは16戦中15勝とターボエンジン時代最後の年に圧倒的な力も見せ付けました。 ※ニコ動アカウントお持ちの方はPart1から見ると1988年シーズンの総集編が見れます。 我々日本人が印象に残ったというのならやはり日本GPでしょう。 スタートでエンジンストゥルを起こしたセナはコースのわずかな坂で再びエンジンを始動させるが順位はほぼドン尻。 だがレース中盤にはシケインで並び、メインストレートでスリップをめいいっぱい使ってプロストをパス。鈴鹿がゆれた瞬間だった。(動画だと10:20あたり) 残念といえばモナコGP、でしたね。 セナは初のゼッケン1を掲げて1989年をスタート。 この年エンジンはNA(自然吸気)HONDA V10にスイッチ。 通称NA元年。 Marlboro Mclaren MP4/5 しかし、他チームのシャーシの完成度が予想以上に高く、エンジンはよかったもののマクラーレンには苦難の年だった。 シャーシだけならまだしも、セナはエンジンにも恵まれなかった。 PP、優勝レースはプロストを上まるが無得点(リタイア)レースがなんと9戦これではプロストにチャンピオンを持っていかれるのは当然の結果だろう。 揺れたのはやはり日本GP。 シケインでセナとプロストが絡み、プロストはリタイア。 セナは執念でコマーシャルに頼み、押しがけでエンジンをかけ、レースに復帰(フロントウィング破損により、すぐにピットイン) 上記のタイムロスを消化しトップでチェッカーを受けるのは不可能と思われたがセナは見事にやってのけた。 ファイナルラップのシケインで一位をパスし、再びトップとなると同時にHONDAパワーでストレートを駆け抜けトップでチェッカーを受けた。 しかしプロストは同郷であり、当時FIA会長のバレストルに「セナはコースでない非常通路を使ってレースに復帰している」と講義。レース後、セナは失格。 プロストはマクラーレンの「スティーブン・ニコルス」とカーナンバー1を掲げてフェラーリに移籍。 翌年はバットマンディフィーザーの曲線的なラインが印象的だったMP4/5Bを投入。 鈴鹿の1周目の1コーナー目でプロストと接触。同時にセナがチャンピオンをゲットした。 入りきらなくなったんでそのまま下にスクロールしてください。 | | | | | | | ↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.03.30 12:10:56
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