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カテゴリ:クルマ、F1など
というわけで続き。
Marlboro Mclaren MP4/6 再びカーナンバー1をひっさげたセナ。 この年はHONDAが前年のNA V10を改良し、V12 RA121Eを投入。 シャーシにもわずかだか手が加えられ、車の総合的バランスが上昇した。 (他チームには及ばなかった) 母国ブラジルでの優勝、鈴鹿1-2フィニッシュなどウレシイことばかりで終わったような1991年だか、HONDAのパワーにシャーシの開発が追いつかなくなっていきパワー時代からトータルバランスが求めなれるようになりつつあった。 セナは「ウィリアムズ・ルノーが真の敵になるlとチームに訴え続けたが、シーズン前半は誰も耳を貸さなかった。 セナの予言は当たり、前半はリタイアが多かったウィリアムズ・ルノーがハイテク機能とルノーパワーで巻き返しをはかり、「指定席であったPPに付けない」(セナ)、「マシンを路面につけるのが精一杯」(ベルガー)とコメントしている。さらにセナは日本のTVカメラを使ってHONDAに言った。 もっと、パワーを!! しかし、連敗のマクラーレンガ変わったのがハンガリーGP直前にHONDA創始者本田宗一郎が亡くなった事から弔い合戦となり、HONDAは新エンジンを投入、Shellも合わせて新型燃料を開発、シャーシも軽量化を進め、マンセルとウィリアムズ・ルノーをなんとか食い止めた。 日本GPは圧勝でした。 Marlboro Mclaren MP4/7A HONDA第二期最後となった1992年。電子制御デバイスなどを取り入れるが完全に流れはウィリアムズ。 しかしモナコGPで開幕6連敗をストップ、その後もシャーシとエンジンの開発を徹底し、最終戦オーストラリアではシーズン中ではありえないセナがマンセルを追い回す事態が起きた。結局セナとマンセルが接触でリタイア、リカルト・パトレーゼも戦線を去り、ベルガーが優勝。最終戦でホンダに勝利を授けた。 Marlboro Mclaren MP4/8 セナがやる気ゼロで始まった翌年。(1戦100万$でスポット参戦扱い) V8のフォード・コスワースを載せたことで大幅な軽量化、シャーシのバランスが飛躍的に向上。 8戦目から契約を結んで公式参戦となったセナは得意の雨にも恵まれ、ウィリアムズのプロストが7勝に対して5勝と可もなく不可もない戦績となった。 4.さらば、アイルトンセナ Willams RENAULT FW16 動画はこちら 動画はこちら 3戦連続でPPを取り、2戦ともリタイア。 そして第三戦目サンマリノ タンブレロコーナー セナは300km/hオーバーで激突。亡くなった。 原因ははっきりしていないが、セナの要望で大径ステアリング変えた際、シャフトの溶接行ったがその溶接した材質が余り相性が良くなく、走行中のストレスに耐えられなくなり、破損、制御不能となった。 事故直後、セナの体に異常はなかったが脳にサスアームがヘルメットを貫通して頭に当たって 脳を傷つけ、亡くなったが一番有力である。 あの日以来F1では誰1人として死者を出していない。 時代はシューマッハ、ハッキネン、アロンソ、バトン、ハミルトン、ベッテルと受け継がれている。 セナを悼む声は今も耐えない。 ↑ランキング参加中です。 クリッククリック! ツイッタータイムラインブログパーツ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.05.01 11:17:49
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