ドイル自身がもっとも愛した短篇であり、探偵小説史上の記念碑的作品「まだらの紐」をはじめ、「ボヘミアの醜聞」、「赤毛組合」など、名探偵ホームズの人気を確立した第一短篇集。夢、喜劇、幻想が入り混じる、ドイルの最高傑作。オックスフォード大学版の注・解説にくわえ、初版本イラスト全点を復刻掲載した決定版。(「BOOK」データベースより)
■コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』(河出文庫、小林司・東山あかね訳)
◎語り手ワトスンの発明
河出文庫(小林司・東山あかね訳)の「シャロック・ホームズ全集」全9巻が完結しました。帯に「決定版」「全イラスト復刻」とあります。それまでばらばらな出版社の文庫で、シリーズを読んできました。ちょうどよい機会なので、第1巻『緋色の習作』から読み直すことにしました。私の書棚には『緋色の研究』(創元推理文庫、阿部知二訳)があります。この作品(1887年発表)は、ホームズがはじめて登場したことで有名です。しかし評判はかんばしくなかったようです。
ドイルはシャーロック・ホームズのシリーズとして60編(長編4、短編56)の作品を残しています。整理しておきます。
【長編】
『緋色の研究』(河出文庫タイトルは『緋色の習作』)
『四つの署名』(河出文庫タイトルは『四つのサイン』)
『バスカヴィル家の犬』
『恐怖の谷』
【主な短編集】
『シャロック・ホームズの冒険』
『シャロック・ホームズの思い出』
『シャロック・ホームズの帰還』
『シャロック・ホームズの最後の挨拶』
『シャロック・ホームズの事件簿』
「正典」による発表年次はつぎのとおりとなります。
1887.12:緋色の研究
1890.02:四つの署名
1891.07:ボヘミアの醜聞(『シャロック・ホームズの冒険』所収)
1891.08:赤髪連盟(『シャロック・ホームズの冒険』所収)
1891.09:花嫁の正体(『シャロック・ホームズの冒険』所収)
1891.10:ボスコム渓谷の惨劇(『シャロック・ホームズの冒険』所収)
以下省略します。詳しく知りたい方は、「シャロック・ホームズ正典」でネット検索してください。私はこの順序で河出文庫を通読しました。私は以前に「標茶六三の文庫で読む400+α」で『シャーロック・ホームズの冒険』(新潮文庫、延原譲訳)を紹介しています。今回河出文庫での通読を完了しましたので、本稿も書き直ししています。
シリーズに火がついたのは、『シャーロック・ホームズの冒険』からでした。前記のとおりドイルは、2つの長編を発表したのち、月刊誌に短編の連載を開始します。短編第1作にあたる「ボヘミアの醜聞」で大きな話題となります。そして探偵小説の一大ブームが起こっています。
『シャーロック・ホームズの冒険』で欠かせないのは、盟友ワトスン博士の存在です。この作品の魅力は、ワトスン博士(「わたし」)の語りにあるといえます。読者はつねにワトスンの目線でとらえたことを、同時に追体験することになります。つい最近、週刊誌『サンデー毎日』(2014.11.23)が「シャーロック・ホームズ・ブーム再燃」という特集を組みました。そのなかに興味深い記述があります。紹介させていただきます。
――今のミステリーは、読者にも手掛かりが提出され、それを一緒に推理する「フェア」な作り方が主流です。しかし当時はそうではない。ホームズだけが知っていて、後から種明かしをされても、ワトスンも読者も「そういったものだ」と納得していた。ただ、ドイル自身はフェアなつもりで書いていますが。(日暮雅通)
ロンドンで住まいをさがしていた、物語の語り手「わたし」(ワトソン)は紹介者の青年につれられて、シャーロック・ホームズの家へいきます。これが2人の出会いとなります。河出文庫『緋色の習作』で確認してみてください。
ワトスン博士は、ホームズをつぎのように評価しています。2人のコンビがあってこそ、『シャーロック・ホームズの冒険』は通常の2人称小説の枠を超えているのです。2人の魅力について語っている文章を紹介させていただきます。
――観察の大切さをくり返し説き、細部情報の収集・分析から論理的思考によって事件の真相に到達するホームズにたいし、彼の伝記作者であるワトスンは、「君(ホームズのこと)は探偵という仕事を厳密な科学に近づけた」という。(『知の系譜・イギリス文学・名作と主人公』自由国民社より)
『シャーロック・ホームズの冒険』は、多くの出版社が文庫化しています。私は今回たまたま河出文庫を紹介させていただきますが、翻訳の優劣を語るほどの力量はありません。以下ならべてみます。
河出文庫(小林司、東山あかね訳)
新潮文庫(延原譲訳)
創元推理文庫(深町眞理子訳。以前は阿部知二訳があります)
光文社文庫(日暮雅通訳)
角川文庫(石田文子訳)
ハヤカワ文庫(大久保康雄訳)
河出文庫『シャロック・ホームズの冒険』を買い求めたとき、その重厚さに驚きました。なんと732ページ。新潮文庫は472ページですから、倍ほどの厚みがあります。
シャーロック・ホームズのシリーズは、1社にしぼってそろえることをお薦めします。同じ書名でも収載作がちがっていたり、同一原書の翻訳が異なる書名で存在したりします。たとえば新潮文庫『シャーロック・ホームズの冒険』は、10編の短編しか収載されていません。残りは『シャーロック・ホームズの叡知』という、他社文庫にはない1冊が追加されています。創元推理文庫(深町眞理子訳)では12の短編が所収されています。
『シャーロック・ホームズの冒険』(河出文庫)では、「赤毛組合」と「まだらの紐」が好みです。この2つはしっかりと新潮文庫のにもはいっています。
◎赤毛とまだら紐
シャーロック・ホームズのすべてを物語っている一文があります。紹介させていただきます。
――シャーロック・ホームズは、ロンドンにまだガス灯がともり、馬車が往来していたころ、ベーカー街二二一番地Bの、「居心地のよい寝室二つと、気持ちよく家具も備えてあり、大きな窓が二つあって、明るく風通しのよい大きな居間一室とからなる」下宿に、元軍医の医学博士ジョン・H・ワトスンと同居していた。シャーロック・ホームズを何度か読んだことがある人間には、たいていこのことが念頭にある。(『読み直す一冊』別役実・朝日新聞社より)
シャーロック・ホームズのベースキャンプは、引用文のとおりです。「赤毛組合」では、こんな具合にベースキャンプが登場します。河出文庫と新潮文庫の訳文をならべてみます。
――昨年の秋の、ある日のことだった。友人のシャーロック・ホームズを訪ねてみると、彼は初老の紳士と、何ごとか熱心に話し込んでいた。その人は、太っていて、赤ら顔をしており、髪の毛は燃えるような赤い色をしていた。/うっかりじゃまをしてしまったおわびを言いながら私が出ていこうとすると、ホームズは突然わたしをつかまえて部屋に連れ戻すと、入り口のドアを閉めてしまった。/「ワトスン、まったくいいところへ来てくれた」とうれしそうにホームズは言った。/「今、君は忙しいのだろう」/「そう、ご覧のとおりだ。ものすごく忙しいよ」/「では、隣の部屋で待っていることにしよう」/「その必要はないよ。ウィルスンさん、こちらはぼくの同僚で、今までに成功した多くの事件のほとんどを、手伝ってもらった人で、あなたの事件にも、きっとお役に立つと思います」(「赤毛組合」、『シャーロック・ホームズの冒険』河出文庫P111より)
――去年の秋のある日のこと、訪ねてみるとシャロック・ホームズは、非常にからだつきのがっしりしたあから顔の、髪の毛の燃えるように赤い年配の紳士と、何事か熱心に対談中であった。うっかりはいってきた無作法をわびて、出てゆこうとすると、ホームズがいきなり私をつかまえて部屋のなかへ引っぱりこみ、ドアをぴたりとしめた。/「ワトスン君、君はじつにいいところへ来たのだよ」/「いや、僕はまた、要談中なのかと思ってね」/「要談中にはちがいないさ。それもきわめて大切な要談中なんだ」/「じゃつぎの間で待ってもいいよ」/「そんな必要はないよ。ウィルスンさん、この紳士はね、いままでに私が成功した多くの事件に、たいていの場合私の相棒ともなり、助手ともなってくれたひとなんですよ。ですからあなたの問題にだって、きわめて有力な役をつとめてくれるにちがいないと思うんです」(「赤髪組合」、『シャーロック・ホームズの冒険』新潮文庫P48より)
ドイルの作品は、チャンドラーなどとちがって、訳者によって大きな変化はおきません。
ホームズのところを訪ねてきていたのは、ウィルスンという赤毛の男です。彼は「赤毛組合」という奇妙なところからの募集広告を持参し、応募すべきかどうかを相談にきていたのです。割りのよい仕事なのですが、「赤毛の男にかぎる」という不可思議な条件が気になっているようでした。
ウィルスンは、応募試験に見事合格しました。行ってみると、彼の仕事は「大英百科辞典」を最初からひたすら書き写すことでした。『シャーロック・ホームズの冒険』では、実に平坦な事件を迷宮へとつなげます。
「まだらの紐」は、義父とふたごの姉妹が住む屋敷での密室殺人事件をあつかっています。奇怪な事件の真相は? コナン・ドイルの作品には、思わずにやりとさせられます。読者はいつも「やられた」と、著者の巧みな展開力に酔いしれることになるのです。
最後に前記『サンデー毎日』の特集記事から引かせていただきます。「アイデア&構成が秀逸な初期短編から読もう」という見出しがついています。
――まずは初期短編「ボヘミアの醜聞」「赤毛連盟」「まだらの紐」(いずれも『冒険』所収)から、いかがか。長編なら処女作『緋色の研究』、怪奇ものなら『パスカヴィルの犬』がお薦めだ。「ボヘミアの醜聞」には、女嫌いといわれるホームズの、生涯記憶に残る女性アイリーン・アドラーが登場。(中略)二度と登場しないけれど、鮮烈な印象を残します。
ドイルはいちどホームズを滝に落として、消失させています。この場面は「最後の事件」(1893年初出『シャーロック・ホームズの思い出』所収)に描かれています。そしてふたたびホームズが出現するのは、「空き家の冒険」(1903年初出『シャーロック・ホームズの帰還』所収)となります。(このくだりは『サンデー毎日』の記事を参考にさせていただきました)
いずれにしても『サンデー毎日』の特集で、「シャーロック・ホームズ」ブームはさらに加速することになりました。名コンビのファンのひとりとして、うれしく思っています。
(山本藤光:2010.10.23初稿、2014.11.13改稿)