騎士道本を読み過ぎて妄想にとらわれ、古ぼけた甲胄に身を固め、やせ馬ロシナンテに跨って旅に出る。その時代錯誤と肉体的脆弱さで、行く先々で嘲笑の的となるが…。登場する誰も彼もがとめどもなく饒舌な、セルバンテスの代表作。(「BOOK」データベースより)
■セルバンテス『ドン・キホーテ』(全6巻、岩波文庫、牛島信明訳)
◎愛情と同時に尊敬の念を
荒唐無稽な物語。『ドン・キホーテ』(全6巻、岩波文庫、牛島信明訳)には、そうきめつけられないなにかが潜んでいます。終始笑い転げながら、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの道行きに同道させてもらいました。でもところどころで考えこみ、2人を見失ってもしまいました。読み進むにつれて、常識という鎧(よろい)を脱ぎ捨てて、彼らに同化している自分自身をも発見しました。こんなに愛らしい主従関係はありえません。2人がうらやましくもなりました。
サマセット・モームは著書のなかで、つぎのように語っています。
――あの忠実なサンチョ・パンサをお供につれたドン・キホーテは、心のやさしい、誠実で高潔な男である。わたくしたちは、彼の身にふりかかるさまざまな不幸を見て、思わず笑い出さないではいられない。(中略)この「憂いの騎士」にたいして、愛情と同時に尊敬の念をいだかないような者があったら、それこそ鈍感極まる人間だといわねばならない。(WSモーム:世界文学読書案内(岩波文庫P71)
そのとおりで読者の多くは、2人に愛情と尊敬の念をいだいてしまうのです。長い物語ですので、ときには全速力で、そしてときどき立ち止まって、息つぎをしなければなりません。笑いをおびたため息をつきながら、この先どこへ行くのだろうと心配になってきたりもします。小林秀雄(推薦作『無常といふ事』新潮文庫)は、2人の絶妙な会話に注目すべきであると語っています。
――「ドン・キホオテ」を読んだ人は、檻に入れられたドン・キホオテと、従って行くサンチョ・パンサとの会話を読んで荒唐無稽と笑うであろう。処が、この二人の間の会話には二人だけに通ずる隠語なるものは描写されてはいないのである。(小林秀雄『全文芸時評集・上巻』講談社文芸文庫P53)
とかく奇妙な事件にのみ注目するのは仕方がないのですが、素朴な2人のやりとりのおもしろさを流し読みしないでください。2人の会話の妙について、的確に言及している本があります。
――二人のやりとりがめっぽうおもしろい。まるで、お笑いのボケとツッコミである。お笑い芸人はみな『ドン・キホーテ』を研究しているのではないかと思うくらいに、ボケとツッコミの基本形がここにある。ツッコミのサンチョ・パンサあってのドン・キホーテなのだ。(斎藤孝『クライマックス名作案内1』亜紀書房)
◎既存の騎士道小説への反旗
笑える勘ちがいは、宴席での格好の調味料となります。ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ50歳くらいは、やせた愛馬・ロシナンテにまたがって、鎧を着こみ、楯と長槍をいだいて、颯爽と風車に挑みます。騎士道物語に凝ったあまり、それが幻想となって現実世界を支配しています。農夫だった従者のサンチョ・パンサの途方にくれた顔が目に浮かびます。
『ドン・キホーテ』は、従来の騎士道物語にたいする反旗である、とする論評があります。そのあたりについてふれた文章を2つ紹介しておきます。
――騎士道小説の主人公が健全な精神と肉体を有する颯爽とした青年であるのに対して、ドン・キホーテは狂った精神に痩せた肉体を引きずる冴えない老いぼれである。しかしドン・キホーテにおいてパロディという手法はあくまで枠組みにすぎない。実体は主筋と緩やかな関連しか持たない挿話との連続なのである。(『世界文学101物語』高橋康也・編、新書館)
――セルバンテスは、世にはびこる騎士道物語に対して、あほらし、人間の本当の姿はそんなふうではないぞ、とか、我々スペイン人ならそういうときはこうするだろう。なんて考えて、真の人間像がおりなす喜劇を書いているのだから。パロディだからこそかえって、人間理解が深いのだ。だからもともと喜劇だった『ドン・キホーテ』が、人間の美しい悲劇の物語、なんて言われるようになった。(清水義範:世界文学必勝法(筑摩書房)
清水義範が指摘するように、セルバンテスの風刺をぞんぶんに愉しむ。そんな読書スタイルがいちばん健全なのかもしれません。清水義範は、その後『ドン・キホーテの末裔』(岩波現代文庫)という作品を発表しています。とてもおもしろい作品ですので、お薦めです。
(山本藤光:2014.08.13)