主人公・ツキコさんこと大町月子はいつも行きつけの居酒屋で、30歳離れた高校の恩師で古文の先生だった、センセイこと松本春綱に再会する。センセイの「ツキコさん、デートをいたしましょう」の一言から2人の恋愛が始まる。(文庫案内より)
■川上弘美『センセイの鞄』(文春文庫)
◎『蛇を踏む』と『物語が、始まる』
川上弘美との出会いを書いておきます。書店に2冊の単行本がならんでいました。いずれも川上弘美の作品です。川上弘美が、第1回パスカル短篇文学賞の受賞者であることは知っていました。この賞は筒井康隆らが中心となって創設されたもので、応募から選考までのすべてを、パソコン通信で行い話題となりました。受賞作『神様』は掲載雑誌が入手できず、その時点では読んでいませんでした。
その後、川上弘美は「蛇を踏む」で芥川賞を受賞します。文芸雑誌で発表されていたのですが、川上弘美の作品が掲載されたものは読んでいませんでした。書店にあったのは、次の2冊です。すぐに買い求めました。
『蛇を踏む』(1996年9月文藝春秋、帯コピー:芥川賞受賞作)
『物語が、始まる』(1996年8月中央公論社、帯コピー:芥川賞作家の初めての作品集)
発行月は、『物語が、始まる』の方が1ヶ月早くなっています。しかし単行本の帯コピーが、「受賞作」と比べると、あまりにも弱弱しく感じました。必然『蛇を踏む』を先に読んでしまいました。あとで気がつきました。失敗したと思いました。デビュー作から順番に読べきでした。ささやかですが、読書における私の思いいれなのですから仕方がありません。成長の履歴を確認しながら、じっくりと一人の新進作家を追いかけたかったのです。
◎独特の文章で引っ張る
川上弘美は、独特の作風をもっています。大人のメルヘンといったらいいのでしょうか。シュールレアリズムの手法と、短い言葉のくりかえし。これが読者を不思議な世界にいざないます。どの作品も、冒頭の数行が効いています。芥川賞の候補作になった「婆」(『物語りが、始まる』に所収)はこんなふうです。
――鯵夫のことを考えながら歩いていたのだ。早足で歩いていたのだ。鯵夫のことを考えれば考えるほど、早足になるのだった。/そうやって、早足で歩いている最中に、手招きされたのだ。手招きされて、寄せられた。手招きされて、ついつい寄せられた。寄せられて、婆の家に入ったのだ。(「婆」より引用)
読者はこの数行で、異世界に迷いこみそうな予兆を感じます。同じ単語のしつような反復は読者を、あっというまに物語へと引きこむ力をもっています。「蛇を踏む」の冒頭も、さりげなく放り投げた感じで味があります。
――ミドリ公園に行く途中の薮で、蛇を踏んでしまった。踏まれた蛇は「踏まれたらおしまいですね」と言って、五十歳くらいの女性に変身する。(「蛇を踏む」本文より引用)
あとは独特の文章でひっぱります。川上弘美は難解な言葉を使いません。やさしい言葉を連ねて異世界を構築しています。こんな具合につづけられます。
――夜のミドリ公園を抜けて部屋に戻ると、部屋はさっぱりと片づいていて絨毯の中ほどに五十歳くらいの見知らぬ女が座っていた。/さては蛇だなと思った。/「おかえり」女はあたりまえの声で言った。/「ただいま」と返すと、女は立ち上がって作りつけの小さな炊事コーナーに立っていき、鍋の蓋をあけていい匂いをさせた。(「蛇を踏む」より引用)
私が好きなのは「消える」という短編。この作品も書き出しがすてきです。
――このごろずいぶんよく消える。/いちばん最近に消えたのが上の兄で、消えてから二週間になる。(「消える」より引用)
なんだか、書き出しばかりを大量に引用してしまいましたが、すばらしい才能の作家誕生の予感がします。河野多恵子とか倉橋由美子みたいに、なりそうな感じがしています。長編を読んでみたいと思います。
◎『溺レる』から予感できる完成形
『溺レる』(文春文庫)は、著者6冊目の作品集です。8篇の収載作は「文学界」に掲載されたものばかりで、男と女の淡い恋心が描かれています。川上弘美の文章は、飾りが少なくわかりやすいのが特徴です。著者が好んで使う「重ね語」も、川上弘美ならではのものです。表題作「溺レる」では、こんなふうに使われています。
――少し前から、逃げている。/一人で逃げているのではない。二人して逃げているのである。/逃げるつもりはぜんぜんなかった。逃げている今だって、どうして逃げているのかすぐにわからなくなってしまう。しかしいったん逃げはじめてしまったので、逃げているのである。(本文より)
従来タブー視されていた同じ言葉のくりかえしを、川上弘美はこれでもかと用います。これほど執拗に「逃げらレる」と、読者はなにから逃げているのかを知りたくなります。そこで「はぐらかす」のも川上流なのです。
表題作「溺レる」の登場人物は2人。主人公・わたしがモウリさんに「何から逃げているのか」と質問します。モウリさんは「リフジンから逃げている」と答えます。モウリさんが同じ質問を「わたし」に返します。わたしには逃げている理由がわかりません。
川上作品には、水墨画を見るような味わいがあります。ストーリーこそ小説の醍醐味、と考える読者にはつまらないでしょう。構図がシンプルで、派手な色遣いもありません。言葉の濃淡、会話の濃淡のなかから、一種独特の世界がみえてくるのです。わかりやすい言葉の羅列と、会話の妙を好む読者にはたまらない魅力です。息をもつかせぬサスペンス小説、謎が謎を呼ぶミステリー小説などとは、ジャンルがちがう不思議な世界。それが川上作品なのです。
男と女。この2極をセックスだけの対象にしてしまう作品が多いなかで、川上弘美はプラトニックな男と女を描きつづけます。「溺レる」の2人は逃げながら、お金がなくなり、新聞配達をはじめます。お金がたまったら、またなにかから逃げはじめます。
モウリさんは、ときどき上の空になります。ほっとかれた「わたし」は、それを寂しく思います。2人は食事をし、昔を回想し、死に思いをはせ、逃げるために働き、夜になれば身を寄せ合います。
川上弘美は不可思議で甘美な世界を、この作品集でも再現してみせました。味わいながら読んでいただきたいと思います。川上作品を読むたびに、谷崎潤一郎の『陰翳(いんえい)礼讃』(中公文庫)を思いおこすのは私だけでしょうか。
(ここまではPHP研究所メルマガ「ブックチェイス」1999年9月5日号に掲載したものを加筆修正しました)
◎湿原を流れる水のような物語
『センセイの鞄』のストーリーは単純です。会話も単調です。それでいて味わい深い作品に仕上がっています。まさしく川上弘美ワールド。純白のキャンバスに、ありきたりの点描をしてゆきます。するとぼんやりとした形があらわれます。あたりまえの言葉のあたりまえの羅列。こんな芸当は著者にしかできないでしょう。
主人公・ツキコは、37歳の独身女性。行きつけの酒場で、高校時代に国語を教わったセンセイと出会います。センセイはツキコよりも30歳以上年上で、妻に先立たれて一人暮しをしています。
2人の淡い交際がはじまります。2人の会話は魅力にあふれています。川上弘美は好んで同じフレーズを繰り返しますが、この作品でもいかんなくそれを発揮してみせています。
――「おいしいですかツキコさん」/食欲のある孫をいとしむような様子で、センセイは言った。/「おいしいです」/ぶっきらぼうにわたしは答え、それからもう一度、/「おいしいです」と、さきほどよりも感情をこめて、答えた。(本文より)
ツキコが安心して顔をうずめる、センセイの胸から響いてくる鼓動。どんなとこにも冷静さを失わない、センセイの呼吸。センセイの存在を実感しながら、ツキコは次第に不安になってゆきます。居酒屋で隣席の空間を埋めるだけの存在だったセンセイ。それがツキコの胸のなかで、少しずつ1つの形をなしてゆきます。在(あ)るものを失うことへの不安……。
――「ツキコさん、ワタクシはいったい、あと、どのくらい生きられるでしょう」/突然、センセイが聞いた。センセイと、目が合った。静かな目の色。/「ずっと、ずっとです」わたしは反射的に叫んだ。(本文より)
湿原を流れる澄んだ水のように、物語はゆったりと終点を目指します。ハンモックかロッキングチェアに揺られながら、心ゆくまで恋愛小説を堪能していただきたいものです。川上弘美はまたやってくれました。こんなに心洗われる恋愛小説を、ほかには知りません。
(山本藤光:2013.03.06初稿、2014.08.12改稿)