逃げて、逃げて、逃げのびたら、私はあなたの母になれるだろうか…。東京から名古屋へ、女たちにかくまわれながら、小豆島へ。偽りの母子の先が見えない逃亡生活、そしてその後のふたりに光はきざすのか。心ゆさぶるラストまで息もつがせぬ傑作長編。第二回中央公論文芸賞受賞作。(「BOOK」データベースより)
■角田光代『八日目の蝉』(中公文庫)
◎「純推文学」の隆盛
角田光代の代表作は、『対岸の彼女』(文春文庫)として書評を発信してきました。ところが角田光代はいとも簡単に、もう一段高いところに立ってしまいました。『八日目の蝉』(中公文庫)は発売時から評判となり、すでに映画化もされています。文庫本の帯(初版)には、4月29日公開と刷り込まれ、割引券までついていました。
「山本藤光標茶六三500+α」は、1作家1作品の紹介を原則としています。しかし若手作家はときどき、書評の差し替えをすることになってしまいます。うれしい悲鳴です。おおいに悩みましたが、角田光代の推薦作を『八日目の蝉』に切り替えることにしました。『対岸の彼女』を抹消するのはしのびがたく、「+α」作品として残させてもらいます。
吉田修一『悪人』(朝日文庫)が評判になったとき、私は『最後の息子』(文春文庫)を推薦作として、書評を発信していました。世間の評判ほど、私は『悪人』を評価していませんでした。サスペンスに逃げたな、という思いこみもあり、辛口になってしまったのかもしれません。ただし、純文学作家・吉田修一という既成概念を除去して読めば、味わい深い高水準な作品なのでした。
角田光代の『八日目の蝉』も、やはり「逃げたな」との思いこみで読みました。ところが反発は瞬時に溶解してしまいました。時間を忘れて、夢中で読みふけったのです。純文学作家がミステリー小説を書くことは、昔からありました。しかしどの作品も、推薦作を超えることはありませんでした。しかし吉田修一、伊坂幸太郎、そして角田光代は、あっさりと純文学系の代表作を超えてしまったようです。3人は世代的にはきわめて近く、私はいつも新作を楽しみにしています。3人の生まれ年と主な作品の、上梓時期をならべてみます。
【吉田修一】
1968年生まれ。
1999年『最後の息子』(文春文庫)
2007年『悪人』(朝日文庫)。
【伊坂幸太郎】
1971年生まれ。
2003年『アヒルと鴨のコインロッカー』(創元推理文庫)
2007年『ゴールデンスランバー』(新潮文庫)
【角田光代】
1967年生まれ。
2003年『対岸の彼女』(文春文庫)
2007年『八日目の蝉』(中公文庫)。
私はいま純文学が推理小説のジャンルに、すり寄りはじめていると感じています。いい加減な命名ですが、「純推文学」なる可能性の萌芽すら感じます。直木賞を受賞した中島京子(推薦作は『FUTON』講談社文庫と『小さなおうち』文春文庫)や売り出し中の朝倉かすみ(推薦作は『田村はまだか』光文社文庫)にも、その予兆を感じています。
「純推文学」ジャンルには先輩作家がいます。列記しておきます。
奥田英朗:1959年生まれ。『最悪』(講談社文庫)
佐藤正午:1955生まれ。『バニッシングポイント』(集英社文庫)
奥泉光:1956年生まれ。『「吾輩は猫である」殺人事件』(新潮文庫)
そうした意味で『八日目の蝉』は、前走していた走者をひとつに巻き込む、前奏曲なのかもしれません。角田光代には『キッドナップ・ツアー』(新潮文庫)という作品があります。こちらはダメな父親が実の娘を誘拐する話です。『八日目の蝉』はその作品をひとひねり以上させた、作品として完成形に近くなっています。
◎角田光代の2人目の赤ん坊
『八日目の蝉』に話を戻します。主人公・野々宮希和子は不倫相手のこどもを中絶した、30歳の平凡な女性です。彼女が中絶したのち、不倫相手の妻に赤ん坊が生まれます。希和子は赤ん坊を一目見たいと、不倫相手の留守宅に忍びこみます。
――今、赤ん坊はベビーベッドのなかで顔を赤くして泣いている。希和子は爆発物に触れるかのごとく、おそるおそる手をのばした。タオル地の服を着た赤ん坊の、腹から背にてのひらを差し入れる。そのまま抱き上げようとした瞬間、赤ん坊は口をへの字に曲げ、希和子を見上げた。(本文P9より)
希和子は赤ん坊を抱え、そのまま立ち去ります。希和子は赤ん坊に、「薫」という名前をつけ溺愛します。指名手配をされますが、希和子は薫を連れて各地を転々と逃げます。4年間におよぶ逃亡生活の終焉をむかえたのは、小豆島でした。連行される希和子は、最後に薫になにかを叫びます。ここまでが第1章です。日記形式でつづられたこの章では、逮捕されなければこの子の母親になれるのか、という問いかけがくりかえされています。
逃亡する希和子の薫にそそぐ愛情。希和子を迎えいれてくれる人たちの愛情。角田光代がこれまでの作品で描いてきた、「共同体」への志向に寄り沿うような展開がつづきます。第2章は成長した薫の視点で、描かれます。こんな具合です。
――そのときのことを私は覚えている。ほかの記憶は本当にあいまいなんだけれど、その日のことだけは、覚えている。だれもいないフェリー乗り場で、あの人は缶ジュースを買ってくれた。チケットを買って、船着き場にしゃがみこんで海を見ていた。私をぎゅっと強く抱きしめた。せっけんと卵焼きのまじったようなにおいがした。私はあの人を笑わせるために何か言ったはずだ。あの人は声を出さずに静かに笑った。(本文P219より)
成長した薫には、安住すべき場所がありません。薫は誘拐犯・希和子と同じような、不倫をはじめます。そしてものがたりは、感動的なラストへと向かいます。
「八日目の蝉」の意味についてはふれません。『対岸の彼女』を角田光代の推薦作として紹介していましたが、『八日目の蝉』はその作品を超えていました。脱帽。すばらしい作品をありがとうと結びたいと思います。デビュー作『幸福な遊戯』(角川文庫)からのおつきあいですけれど、初々しかった角田光代は2人目の大きな赤ん坊を、生み落としたとお祝いしたいと思います。
(山本藤光:2011.02.18初稿、2014.08.28改稿)