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カテゴリ:サ行の著作者(海外)の書評
インチキ野郎は大嫌い! おとなの儀礼的な処世術やまやかしに反発し、虚栄と悪の華に飾られた巨大な人工都市ニューヨークの街を、たったひとりでさまよいつづける16歳の少年の目に映じたものは何か? 病める高度文明社会への辛辣な批判を秘めて若い世代の共感を呼ぶ永遠のベストセラー。(アマゾン内容紹介)
■サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(白水Uブックス、野崎孝訳) ◎文体でひっぱる 2010年2月2日、共同通信の記事「世捨て人ではなかった」という、サリンジャー死去のニュースを読みました。長いのですが、興味深い記事なので全文を紹介します。 (引用はじめ) ――軽食堂で食事を取り、気軽にあいさつを交わすなど「もの静かな田舎の人」で世捨て人ではなく、住民の間では私生活を口外しないことが暗黙の了解だった。同氏は1953年ごろに東部ニューハンプシャー州の田舎町、コーニッシュに転居、死去まで人口約1700人のこの町で過ごした。 サリンジャー氏は町で「ジェリー」と呼ばれ、数年前まで選挙や町民会議にも参加するなど完全に「町の住民」だった。買い物はほとんど町の雑貨店で行い、一人で軽食堂で食事を取り、「あいさつにも気軽に応じる気さくな人」。自宅近くに住む子供と学校の話をし、自宅の庭でそりをしたいという頼みにも快く応じていたという。 教会の夕食会を気に入り、毎週土曜に12ドル(約1090円)のローストビーフを食べに来ていたが、昨年12月が最後だった。 (引用おわり) サリンジャーは、ニューヨークのマンハッタンで生まれています。彼の独特の文体を、都会生まれだからと書いている批評家もいます。私は生まれと文体は、必ずしも一致しないと思っています。むしろサリンジャーは、16歳の主人公の内なる感情を、この文体でしか書くことができなかったとみるべきでしょう。 『ライ麦畑でつかまえて』(白水Uブックス、野崎孝訳)を読むのは、今回で2度目です。2度とも野崎孝の訳で読みました。村上春樹訳がでたので、それも読んでみました。タイトルもカタカナで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)となっていました。翻訳作品って、訳者によってまったく異なるものになります。そんな実感をもっています。 『ライ麦畑でつかまえて』は、文体で読ませる作品です。どちらを選ぶかは、個人の好みの問題になります。私は村上訳よりも、どっしりとした野崎訳の方が好きです。『ライ麦畑でつかまえて』の文体の大切さにふれた説明を引用したいと思います。 。 ――『ライ麦畑でつかまえて』は、成績不良で退学になった高校生の言動を通して、その清純犀利な感覚と思考がとらえた人間社会の「いやらしさ」を描いた作品だが、50年代ハイティーンの用語を的確に写しとっていると評される文体のさわやかで歯切れのよい語り口と相まって、圧倒的な人気を呼び、ベストセラーになるとともに、ティーン・エージャーの心理の研究資料として学校の教材に利用されたりするまでになっている。(「新潮世界文学小辞典」より) 翻訳は時とともに、陳腐化するといわれます。そんな意味では、新しい訳書のほうが、時代にマッチしているかもしれません。このあたりは好みの問題ですから、だれの訳書がいいと強要するつもりはありません。 ◎揺れる少年の心 主人公のホールデン・コールフィールドは、成績不振で名門高校を3度目の除籍となります。彼は自宅のあるニューヨークへ戻りますが、両親の逆鱗にふれることを恐れて、3日間街をさ迷い歩きます。『ライ麦畑でつかまえて』は、クリスマス休暇直前の3日間を、少年の日常的な言葉でつづられた青春物語です。 ホールデン少年は、タバコを吸い大酒を飲みます。背伸びしたそうしたおこないとは裏腹に、人を恋しがる幼い感覚をもってもいます。大人の社会にたいしての反発と、戸惑い揺れ動く感情の表現は、常に少年の肉声として描かれています。 寂しさをまぎらわせるために、ホールデンは、売春婦、ポン引き、女ともだち、教師などに近づきます。しかし金と欺瞞に満ちた彼らは、彼の孤独感をいやしてはくれません。そのかわり彼は、修道女、こども、池のアヒルに親近感を抱くことになります。 ケンカばかりしていた寮生活から抜けだしたものの、ホールデンは外社会でも自分の居場所を発見することができません。ホールデンはこの間、自分にとって唯一の理解者は妹のフィービーであることを実感します。 相手の目に映っているのは、まぎれもない少年・ホールデンです。しかし彼は年齢を偽り、娼婦を部屋に迎え、バーに出入りもします。本人は大人を演じているつもりですが、いたるところで幼さが露見します。目いっぱい爪先立つと、やがて疲れて体が揺れる。そんな瞬間が微笑ましくもあります。 最終的には自宅に戻り、唯一の理解者である妹・フィービーともケンカをしてしまいます。行き場を失ったホールデンは、ふたたび家を出ようと決心するのですが……。この場面は圧巻です。 懐疑、嫌悪、憎悪などの渦巻く汚水のなかから、突然少年はある感覚を抱くことになります。 ちなみに「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルは、スコットランド民謡「ライ麦畑で会うならば」から借りたものです。この曲は聴いたことがありませんが、本文中からその場面を拾っておきたいと思います。野崎歓訳と村上春樹訳をならべてみます。 ――子供がすてきだったんだよ。歩道の上じゃなくて、車道を歩いているんだ。縁石のすぐそばのところだけどね。子供はよくやるけど、その子もまっすぐに直線の上でも歩いていくような歩き方をしているんだな。そして歩きながら、ところどころにハミングを入れて歌ってるんだ。僕は何を歌ってんだろうと思ってそばへ寄って行った。歌ってるのは、あの「ライ麦畑でつかまえて」っていう、あの歌なんだ。(野崎歓訳P180より) ――でもその子どもはなかなか良かったね。その子は舗道を歩かずに、車道を歩いていた。舗道の縁のすぐわきのところを歩いていたんだけどさ。彼はまっすぐな一直線をたどって歩こうと必死にがんばっていた。そういうのって小さな子どもがよくやるじゃないか。そしてそのあいだずっと唄を歌ったり、ハミングをしたりしているんだ。何を歌っているのか知りたくて、ぼくはその子の近くに寄ってみた。その子の歌っているのは、「ライ麦畑をやってくる誰かさんを、誰かさんがつかまえたら(If a body catch a body coming through the rye)」という歌だ。(村上春樹訳P191より) 2冊の訳書とも、すばらしい読後感でした。耳にしたことのない「ライ麦畑」のメロディが聴こえているように思われました。 (山本藤光:2010.12.08初稿、2014.10.17改稿) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年10月19日 14時55分05秒
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