急変してゆく現実を理解せず華やかな昔の夢におぼれたため、先祖代々の土地を手放さざるを得なくなった、夕映えのごとく消えゆく貴族階級の哀愁を描いて、演劇における新生面の頂点を示す「桜の園」、単調な田舎の生活の中でモスクワに行くことを唯一の夢とする三人姉妹が、仕事の悩みや不幸な恋愛などを乗り越え、真に生きることの意味を理解するまでの過程を描いた「三人姉妹」。(アマゾン内容紹介)
■チェーホフ『桜の園』(新潮文庫・神西清訳)
◎現代にも通用する『桜の園』
チェーホフは若い人と老人を、好んで作品に登場させています。若い人は夢や希望にあふれており、老人は諦念、幻滅の象徴として描かれているのです。
『桜の園』(新潮文庫、「三人姉妹」併載)は、チェーホフ4大戯曲の最後の作品です。それ以前に『かもめ』(新潮文庫、「ワーニャ伯父さん」併載)が、モスクワ座で大成功をおさめました。つづいて『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』と書き連ね、1903年『桜の園』を書き上げたのです。モスクワ座での上演はその翌年であり、チェーホフはその数ヵ月後に亡くなっています。
チェーホフは、人物の内面を刻々と描くことに長けた作家です。『桜の園』には、たくさんの若者と老人が登場します。舞台は帝政ロシアの末期。ラネーフスカヤは没落貴族の女地主です。彼女には、娘・アーニャと幼女・ワーリャがいます。
5年ぶりにパリから戻ったラネーフスカヤは、屋敷と桜の園が競売にかけられていることを知ります。屋敷には、老執事、兄、召使い、家庭教師、地主、商人などさまざまな人が出入りしています。
兄はその無能力さから、屋敷や桜の園を競売へと追いやってしまっています。2人の娘は、華やかな世界へ行くことだけに関心があり、競売にはまったく無頓着な状態でした。唯一、一家の農奴の息子だったロバーヒン(今は豊かな商人)だけが、桜の園を守るためには、賃貸別荘地にすべきであると主張します。
とにかく登場人物が複雑であり、名前が覚えにくいのが難点です。何度も登場者リストをくくりながら、読み進めました。創元推理文庫のように、表紙裏に登場人物リストがあれば参照しやすいのですが。そして、競売の日を迎えます。
チェーホフは、急な流れに身をまかせるラネーフスカヤと、桜の園を守りたいとの思いの強いロバーヒンを対極においてみせます。地主階級と元農奴のなりあがり。2人の対比が、作品に色どりをそえます。
◎日本文学にも大きな影響
太宰治(推薦作『斜陽』文春文庫)が『桜の園』に、大きな影響を受けた話は有名です。太宰治が文学の師匠である井伏鱒二(推薦作『山椒魚』新潮文庫)に、つぎのような書簡を送っています。
――「私の生家など、いまは『桜の園』です。あはれ深い日常です」(関口夏史『新潮文庫20世紀の100冊』新潮新書より)
チェーホフは太宰治以外にも、さまざまな作家に影響を与えています。当時の文壇では、私的な内面に迫ったリアリズム(自然主義)が新しかったのです。モーパッサン(推薦作『女の一生』新潮文庫)などが主流の時代でしたから、プロットのない作品は珍しかったのでしょう。
そんなチェーホフは、イプセン(推薦作『人形の家』新潮文庫)やメーテルリンク(推薦作『青い鳥』新潮文庫)から大きな影響を受けていました。
ちょっと読みにくいのですが、チェーホフは小説の世界を変えた分水嶺にいた作家です。チェーホフ作品には、2つのテーマが存在しています。未来への出発(『三人姉妹』)と現在への安住(他の作品中の登場人物)との2つです。
このテーマは安部公房『砂の女』(新潮文庫、「標茶六三の文庫で読む400+α」推薦作)と同じです。『砂の女』の主人公は砂の穴の家に幽閉されて、ずっと「にげだしたい」(未来への出発)と希求していました。それが砂のなかから水を発見してから「巣ごもりたい」(現在への安住)との気持ちに変化します。
あなたの読書のマイルストーンとして、チェーホフ『桜の園』をいずれかの時期にすえたいものです。ちなみにここで描かれている桜は、日本人が花見を楽しんでいるものとはちがいます。サクランボの実をつける品種の方です。念のため。
(山本藤光:2012.10.21初稿、2015.02.04改稿)