200年近い長い間、世界各国で圧倒的な人気をあつめてきた『巌窟王』の完訳。無実の罪によって投獄された若者ダンテスは、14年間の忍耐と努力ののち脱出に成功、モンテ・クリスト島の宝を手に入れて報恩と復讐の計画を着々進めてゆく。この波瀾に富んだ物語は世界大衆文学史上に不朽の名をとどめている。1841―45年刊。(文庫案内より)
■デュマ『モンテ・クリスト伯』(全7巻、岩波文庫、山内義雄訳)
◎無実の罪での幽閉
19歳の船乗りエドモンド・ダンテスは船長の急死により、つぎの航海から船長にばってきされることになっていました。また恋人メルセデスとの結婚もきまっていました。そんな絶頂期にあるダンテスは、婚約披露宴の席でいきなり逮捕されてしまいます。尋問にあたったのは刑事代理・ヴィルフォールでした。罪状はナポレオン派のスパイということでした。
ダンテスは釈明の機会もあたえられず、海上の牢獄に幽閉されます。いたずらに時は流れます。そして約7年。ダンテスの前に隣の牢に閉じこめられていた、ファリア神父があらわれます。ファリア神父は長い歳月をかけて、脱獄用にトンネルを掘っていました。しかし計算ミスで、ダンテスの牢に行きついてしまったのです。
孤独な2人の親交がはじまります。ファリア神父は、ダンテスを無実の罪におとしいれた人間を特定します。それまでダンテスは、そうした人間がいることに気づいていませんでした。ファリア神父は、ダンテスに教育を施します。そして新たな脱獄計画をねりあげます。しかしファリア神父は衰弱がはげしく、死を意識して秘宝のありかをしたためた書き物を、ダンテスにゆだねます。
ファリア神父に死がおとずれます。ダンテスは袋にいれられたファリア神父の死体と入れ替わります。死体は海に投げこまれます。こうしてダンテスの14年間にわたる幽閉生活は終焉をむかえます。
脱獄に成功したダンテスは、ファリア神父の地図にあったモンテ・クリスト島を買い求めます。彼はモンテ・クリスト伯の称号を得て、14年間の怨念を晴らすべく復讐の鬼と化します。
◎復讐劇の幕開け
莫大な財力を手にしたダンテスは、モンテ・クリスト伯としてパリの社交界にはいりこみます。彼はブゾーニ神父、ウィルモア卿、船乗りシンドバッドなどに変装しながら、1等航海士だった時代の人間たちに接近します。
ファラオン号の船主・モレル氏は、ダンテスをつぎの船長に指名したやさしい人です。ファラオン号が沈没して、モレル商会は経営の危機にありました。そんなときに沈没した船がこつぜんと港にあらわれたのです。形は以前と同じなのですが、新装されたファラオン号でした。モレル氏は息子のマクシミリオンとともに、奇蹟をよろこびます。
モンテ・クリスト伯は善意の施しをしたのち、いよいよ復讐へと舵をきります。
第1の標的は、元ファラオン号の会計係だったダングラールです。彼はダンテスを罪におとしいれたのち、大銀行家となり男爵の称号を手にしていました。ダングラールはダンテスがつぎの船長になることを知り、はげしい嫉妬にかられていたのです。
第2の標的は、婚約者メルセデスに横恋慕していたフェルナンです。彼はダングラールと組んで、ダンテスをおとしいれました。そしてダンテスなきあと、メルセデスと強引に結婚しています。いまではモレゼール伯爵と名乗り、アルベールという息子がいます。
第3の標的は、元マルセイユの検事補ヴィルフォールです。彼は保身のために、無実のダンテスを投獄した張本人です。現在は検事総長になっています。
復讐劇については、具体的に紹介するのはひかえたいと思います。復讐のターゲットたちには、それぞれりっぱな若者に成長したこどもたちがいます。モンテ・クリスト伯は、彼らにはやさしい眼差しで接します。
さらに物語の最後のほうには、エデという美しくて若い女性が登場します。フェルナンデスの裏切りで奴隷となっていたのを、モンテ・クリスト伯が救出したのです。エデを含めた若者たちは、とかく醜悪になりがちな復讐劇に、さわやかな風を送りこんでくれます。
◎待て、しかして希望せよ!
こどものころに『岩窟王』を読んでいます。そして村松友視・文『痛快世界の冒険文学15・モンテ・クリスト伯』(講談社)も読んでいます。『モンテ・クリスト伯』を「標茶六三の文庫で読む400+α」で紹介しようときめたとき、岩波文庫(山内義雄訳、全7巻)の山をみて一瞬たじろぎました。これを読まなければ、原稿は書けないのです。
そして全7巻を読破したとき、手抜きをしなくてよかったと安堵しました。デュマ『モンテ・クリスト伯』は壮大な物語でした。これほど夢中になって、読み進めた本はありません。筒井康隆は著作のなかで、「児童書で読まなくてよかった」と若い時代の感想をのべています。
――読みはじめてぼくはまず、児童向きの本で読まなくてほんとうによかったと思った。「神は細部に宿る」なんて諺はまだ知らなかったが、その諺はまさに小説のためにあったのだ。子供向きの本ではストーリイを追うあまり細部の描写や顛末なエピソードは省かれてしまう。しかし小説の真の面白さはそういう部分にこそあり(後略)(筒井康隆『漂流』朝日新聞社より)
もう少し『モンテ・クリスト伯』の感想をひろってみます。
――饗宴の描写、服や食物の描写の楽しみ、スカッとさわやかなドンデン返し、スリルとサスペンス、ハラハラドキドキ、快哉、感動、「ああ、終っちゃった……」の詠嘆。――ここにこそ、物語の魅力のすべてがある。/そのいいかげんさや適当さ、ご都合主義と感傷のすべてを含めて、これが私の考える理想の小説というものだ。私はこの本を読んだから小説家になったのだし、私の書きたいのはこういう小説だけなのだ。(中島梓、『朝日新聞社学芸部編:読みなおす一冊』朝日選書より)
最後にモンテ・クルスト伯がマクシミリヤンに宛てた印象的な手紙があります。それを引用させていただきます。
――この世には、幸福もあり不幸もあり、ただ在るものは、一つの状態と他の状態との比較にすぎないということなのです。きわめて大きな不幸を経験したもののみ、きわめて大きな幸福を感じることができるのです。(岩波文庫第7巻P439より)
そして手紙はこんな名セリフで終ります。
――待て、しかして希望せよ!
(山本藤光:2011.08.30初稿、2015.02.04改稿)