地上の恋を捨て天上の愛に生きるアリサ。死後、残された日記には、従弟ジェロームへの想いと神の道への苦悩が記されていた……。(新潮文庫案内)
■ジッド『狭き門』(新潮文庫、山内義雄訳)
◎愛と宗教との葛藤
小説家になることを夢見ていた、若い時代があります。乏しい恋愛体験を、原稿用紙に書き連ねては自己満足していました。そんな夢を無残にも打ち砕いたのが、ジッド『狭き門』(新潮文庫)でした。私の書く恋愛小説は、なんと薄っぺらなのだろうと愕然としました。『狭き門』には、愛と神との葛藤が描かれていました。「神」の力が欠如している私の小説は、軽薄で独りよがりで、それこそ狭い世界でのものがたりだったのです。
ギターの弦を力任せにしめると、重苦しい音しか生まれません。『狭き門』はそんな音に満ちた、世界を描いたものがたりです。
『狭き門』を紹介するとき、ジッドの生い立ちを抜きにしては語れません。これほど張りつめた世界は、空想だけでは描けないからです。ジッドの生い立ちについて、ふれられた文章を紹介します。
――幼時に受けた厳格なキリスト教のモラルと、彼に内在する肉欲の悩みとの葛藤が、久しいあいだ、彼を苦しめた。一八九五年(二十六歳)、それ以前から彼が清純な愛情を捧げていた従姉のマドレーヌ・ロンドーと結婚したが、彼の悩みは解消しなかった。なぜなら、彼女に対しては信仰の対象とすらいえる精神的な愛のみを抱き、すでに結婚以前、アルジェリアで少年の肉体を体験し、自己の同性愛的傾向を自覚していたからである。それ以来、キリスト教のモラルと肉欲の対立のみでなく、妻には精神的な愛を、同性には肉体的な愛を感じるという新たな対立がはじまった。これらの複雑な対立は、彼の作品の多くに表れている。(加藤民男編『フランス文学・名作と主人公』自由国民社P160より)
そんな前提で『狭き門』のストーリーを追ってみます。
主人公・ジェロームは14歳。父を亡くし、母とともに叔父の家のある町に移ります。叔父には、3人のこどもがいます。ジェロームは2歳上のアリサに恋をしてしまいます。アリサは知的で、思慮深い美しい女性でした。しかし微笑みには、どこか憂いが含まれているのです。アリサは妹・ジュリエットと弟・ロベールを、こよなく愛していました。
平穏な家庭に、突然波風が起きます。母親が若い男と、駆け落ちしてしまうのです。ジェロームはアリサを、不幸な環境から救い出したいと思います。その直後の礼拝で、ジェロームは牧師の説く「力を尽くして狭き門より入れ」という言葉に啓示をうけます。
ジェロームの愛にたいして、アリサは心を閉ざしつづけます。妹のジュリエットが、ジェロームを恋していることを知っていたからです。しかしジュリエットは、ジェロームをあきらめてほかの男と結婚してしまいます。
それでもアリサの心は開かれません。ジェロームは神学校に入学するために、アリサのもとを離れます。そのあいだ2人は、なんども手紙でやりとりをします。しかし宗教心の厚いアリサと、恋の成就を願う2人の距離は埋まりません。
桑原武夫は著作のなかで、『狭き門』について簡単明瞭に説明してくれています。
――『狭き門』は、一口でいえば、一人の少女が愛している青年との恋をあきらめるという恋物語ですが、そのあきらめは外部からの圧迫とか、周囲のやむをえない事情とかにもとづくのではすこしもなく、その少女の心の中から生まれたあきらめである――そういう微妙な恋物語です。(桑原武夫『わたしの読書遍歴』潮文庫)
桑原武夫はアリサを主役にして、ものがたりを論評しています。
『狭き門』は切ない小説です。ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(新潮文庫)が、本書に重なってきました。『狭き門』は、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』と併読するべきだったと思いました。私はこれら2つの作品を、代表的な恋愛小説だと思っています。
◎絶賛、小林秀雄が石川淳が
ジッドは石川淳が、大好きな作家です。安部公房(推薦作『砂の女』新潮文庫)を卒論に選んだ私は、彼が影響を受けた石川淳(推薦作『紫苑物語』講談社文芸文庫)や花田清輝(推薦作『復興期の精神』講談社文芸文庫)を読み、ジッドやカフカ(推薦作『変身』新潮文庫)まで手をのばしていました。安部公房という核から広がり読みはじめた作家はほかに、カミュ(推薦作『異邦人』新潮文庫)、リルケ(推薦作『マルテの日記』新潮文庫)、キャロル(推薦作『不思議の国のアリス』新潮文庫)、倉橋由美子(推薦作『スミヤキストQの冒険』講談社文芸文庫)などがいます。
『狭き門』(新潮文庫)の巻末に「跋(ばつ)」として石川淳がつぎのように書いています。石川淳はジッド作品『背徳者』(新潮文庫)の翻訳も手がけています。
――彼の文は、渾々(こんこん)と迸(ほとばし)る泉でもなく、飄々(ひょうひょう)捉え難き風でもない。それは、一字一字に鑿(のみ)の閃きを宿して、人の心の壁に刻み附ける浮彫りである。『狭き門』に至るまで、ジッドの著作は十数巻を算する。其処(そこ)には、言葉と言葉とがぶつかり合い、文字と文字とが犇(ひしめ)き合って、或いは動き、或いは静まりながら、各句各行が目に見えない鉤に繋がれ累々として一基の塔をうち樹てている。ジッドとともにこの塔へ上る者は、『狭き門』に於いて一段と作者の鑿の冴えを認めるであろう。その冴えこそは、「葉の蔭を洩れて水に沈む日の光」である。(巻末の石川淳「跋」より)
小林秀雄に『Xへの手紙』(角川文庫)という著作があります。このなかの「私小説論」で、ジッド『狭き門』についてつぎのように書いています。
――純粋小説の思想は言ふ迄もなくアンドレ・ジイドに発した。一体ジイドが現代のフランス文学界で、極めて重要な位置を占めるに至ったゆえんは、その強烈な自己探求の精神にあった。「地の糧」の序文に彼は書いた。「私が、これを書いたのは文学が恐ろしく風遠しの悪さを感じてゐる時であった。文学を新しく大地に触れさせ、文学にただ素足のままで土を踏ませる事が焦眉の急だと私には思はれたのだ」と。(本文P80より)
小林秀雄は、ジッドの『狭き門』はどんな通俗小説よりも売れたとも書いています。また横光利一はパリの講演で「日本では女中でさへも、ジイド氏の作品を探し求めて読むやうになっています」(「我等と日本」『欧州紀行』講談社文芸文庫)といっています。(この部分は検証していません。小谷野敦『恋愛の昭和史』文春文庫を参考にさせてもらいました)
本書は小林秀雄や横光利一がいうとおり、読んでいなければ恥ずかしい作品でした。かたくななアリサの気持ちが、日本人にはわかりにくいと思います。神にたいする愛。ジェロームにたいする愛。この2つの愛をひとつにしてしまうと、『狭き門』の間口は広がります。最後に吉田健一の文章で結んでおきます。
―― 一人の美しい少女が次第に大人になって、それは一人の男に対する愛情とともにであり、愛情の方も暫く成熟した時に、これと並行して強くなった宗教心の為に、他になんの邪魔もないのにも拘わらず、男からはなれなければならなくなる次第が、当の女の気持ちを通じて語られているとすれば、それだけで我々の同情,或いは少なくとも、好奇心に訴えるのに十分なものがある。(吉田健一『文学人生案内』講談社文芸文庫)
(山本藤光:2010.05.30初稿、2015.02.27改稿)