セシルはもうすぐ18歳。プレイボーイ肌の父レイモン、その恋人エルザと、南仏の海辺の別荘でヴァカンスを過ごすことになる。そこで大学生のシリルとの恋も芽生えるが、父のもうひとりのガールフレンドであるアンヌが合流。父が彼女との再婚に走りはじめたことを察知したセシルは、葛藤の末にある計画を思い立つ……。20世紀仏文学界が生んだ少女小説の聖典、半世紀を経て新訳成る。(新潮文庫案内)
■サガン『悲しみよこんにちは』(新潮文庫、朝吹登水子訳)
◎処女作が大ブレーク
サガンは豊かな家庭で育ちました。学園生活や受験にはなじめず、何度も転校をくりかえしていました。18歳のときに書いた処女作『悲しみよこんにちは』(新潮文庫、朝吹登水子訳)で、サガンは突然、時のヒロインになってしまいます。
私は本稿の執筆にあたり、『悲しみよこんにちは』を再読しました。高校時代に読んだと思われる文庫本は、紙ヤケがひどく活字も色あせていました。奥付をみると、昭和45年56刷でした。したがって、読んだのは大学時代なのかもしれません。
文庫本には親指を下唇にあてたサガンの、写真が挿入されています。作家が自らの顔を露出したのはこれが最初だ、ということをなにかで読んだ覚えがあります。処女作『悲しみよこんにちは』は、爆発的に売れました。と同時に、サガンの生活を一変させてしまいました
豪華な別荘を買い求め、オープンカーを乗り回し、クラブに入りびたります。ヘロイン中毒になり、賭博にも夢中になります。幸福の絶頂にあったとき、サガンは愛車を走らせ瀕死の重傷を負います。
その後2度結婚をし、一人息子を得ます。こどもの存在は、サガンの考え方を大きく変えました。束縛されることや、秩序に組みこまれることを嫌ったサガンでしたが、他人を大切にするようになりました。サガンが追求していたテーマ「愛」「孤独」は、子育てを通じて変化したのです。
『悲しみよこんにちは』のタイトルは、フランスの詩人・エリュアール「直接の生命」からもらったものです。その詩の断片は、文庫本のカバーに挿入されています。いい詩だな、と私も思います。
「悲しみよさようなら/悲しみよこんにちは」の書き出しに、青春時代を重ねる人は多いと思います。ひとつの悲しみに別れを告げても、新たな悲しみが訪れる。青春時代ってそうだったよな、となんとなく納得してしまいます。
ちなみに「サガン」というペンネームも借り物です。彼女が大ファンであった、ブルースト『失われた時を求めて』(全3巻、集英社文庫抄訳版)のサガン大公夫人の名前を借用しています。
◎早熟な女の子が書いた物語
『悲しみよこんにちは』の主人公・17歳のセシルは、南仏の別荘で夏の休暇をすごしています。父親は愛人・エルザを連れこんでいます。父親は40歳。10年以上前に妻を亡くして、半年ごとに愛人を変えています。エルザは29歳と若いのですが、聡明な女性ではありません。母親の顔も愛情も知らないセシルは、父親に深い愛情を抱いています。
――その夏、私は十七だった。そして私はまったく幸福だった。私のほかに、父とその情人のエルザがいた。私はこの不自然にみえる状態について、ここで説明を加えておかなくてはならない。父は四十歳で、十五年来鰥夫(やもめ)だった。父は若く、生活力に満ち、豊かな前途ある男だった。(本文より)
――父は女たらしで、仕事上手で、いつも好奇心が強く、飽きやすく、そして女にもてた。私は苦労せずに、そして優しく、父を愛することができた。なぜなら父は親切で、気前が良く、朗らかで、私に溢れるような愛情を持っていたからだ。私は父以上に良い、そしておもしろい友達は想像できない。(本文より)
別荘での6日目、セシルは25歳のヨット青年・シリルと出会います。セシルはシリルに恋をします。そんなとき、亡くなったセシルの母の友人・アンヌが、別荘を訪ねてきます。アンヌは42歳ですが若々しく、知的で冷淡な美しさをもっています。セシルの父親は、たちまちアンヌに恋をし結婚を決意します。
いたたまれなくなり、情人エルザは姿を消してしまいます。アンヌは母親のような厳しさで、セシルを束縛します。シリルとつきあってはならない。身を入れて受験勉強をしなさい。我慢ができなくなったセシルは、エルザとシリルを使って、アンヌを追い出そうと策略を練ります。
策略があたって、アンヌは別荘を出てゆきます。途中アンヌの車は、崖下に転落してしまいます。アンヌの死は事故死なのか自殺なのかは、判然としません。しかし父親の愛を独占したいという若い激情が、アンヌを死に追いやったのは明らかです。
◎『悲しみよこんにちは』の舞台
小説を読む楽しみのひとつに、物語の舞台を訪ねるということがあります。お金も暇もない私は、もっぱら第三者が書いた旅行記を読んで、満足することになりますが。そうした著作のなかでお薦めなのは、朝日新聞社編『世界名作文学の旅』(上下巻、朝日文庫)です。最近では書店から姿を消してしまっているのですが、アマゾンの中古では購入可能です。
『悲しみよこんにちは』には、こんな記述があります。場所は特定されていませんが、読者には地中海に面した別荘地くらいは想像できます。
――父はかねて地中海に面した海辺に、一軒はなれた大きな、白い、すてきな別荘を借り、私たちは、六月、暑さがはじまると、それを夢見ていたのだった。別荘は海を見下ろす岬の先に建てられ、松林によって道路から隠されていた。そこから、石ころの小径が、波の揺れている、赤茶けた岩にかこまれた金色の入江へ降りていた。(本文P7より)
こうした舞台に対応してくれているのが、先に記した『世界名作文学の旅』です。その部分を紹介します。
――コート・ダジュール。この言葉を口にすると、せばめた口もとから、光にあふれる真っ青な海が広がりでるようだと、あるパリジャンが言った。/誇張ではなかった。まぶたの裏まで染まりそうに、きらめく地中海の青。光の束。足もとの岬から大きく広がる湾の向う、カンヌの豪華なホテルの列は、光のカーテンのなかに揺れ、白っぽくかすんでみえた。イタリア国境からモンテカルロ、ニース、カンヌ……と続く百二十キロの海岸、コート・ダジュールは、太陽の下で、その名の通り〈青の海岸〉に輝いていた。(朝日新聞社編『世界名作文学の旅(上)』朝日文庫、P12より)
私の読書では、こうしたガイド本や地図帳が欠かせません。そしてもうひとつ大切にしているのは、日本の歴史と世界の歴史解説本です。時代背景を知ると、読書に幅が生まれてくるからです。そんな意味で、日本近代文学を読むときに重宝しているのは、『新潮日本文学アルバム』または『文豪ナビ』(新潮文庫)です。
◎ちょっと寄り道
初期のサガンの作品は、ほとんど内容、形式とも同じです。三角関係や四角関係などのちがいはあるものの、壊れやすい青春の愛を描いています。たとえば『ある微笑』(新潮文庫)は、孤独と倦怠をもてあましている20歳の娘と、40歳代の男の恋を描いた作品です。舞台こそ夏のカンヌですが、優雅なバカンスのアバンチュールは『悲しみよこんにちは』と酷似しています。
『悲しみよこんにちは』は、映画にもなっています。当初セシル役には、オードリー・ヘップパーンが予定されていました。しかし作品が背徳的であるという理由で、ヘップパーンに拒絶されています。しかし私のイメージのなかでは、なぜか、セシルがオードリー・ヘップパーンとかさなっています。不思議なものです。
(標茶六三:2009.11.18初稿、2015.03.15改稿)