偵稼業は女には向かない。ましてや、22歳の世間知らずの娘には―誰もが言ったけれど、コーデリアの決意はかたかった。自殺した共同経営者の不幸だった魂のために、一人で探偵事務所を続けるのだ。最初の依頼は、突然大学を中退しみずから命を断った青年の自殺の理由を調べてほしいというものだった。コーデリアはさっそく調査にかかったが、やがて自殺の状況に不審な事実が浮かび上がってきた…可憐な女探偵コーデリア・グレイ登場。イギリス女流本格派の第一人者が、ケンブリッジ郊外の田舎町を舞台に新米探偵のひたむきな活躍を描く。(「BOOK」データベースより)
P・D・ジェイムス『女には向かない職業』(ハヤカワ文庫、小泉貴美子訳)
◎まずは処女作のダルグリッシュ警視を
フィリップ・ドロシイ・ジェイムス『女には向かない職業』(ハヤカワ文庫、小泉貴美子訳)の主人公コーデリア・グレイは、22歳の駆け出し探偵です。タイトルから類推できるとおり、探偵は女性です。物語は後見人であり共同経営者でもある、バーニー・プライドの自殺で幕があがります。この設定が『女には向かない職業』全体を、やわらかに包み込みます。コーデリアに残されたのは、ブライド探偵事務所と彼の教えと一丁の拳銃でした。
失意のコーデリアのところに、著名な学者のロナルド・カレンダー卿から依頼が舞い込みます。息子が自殺した原因を調べてほしい、というものでした。探偵としては素人に近い彼女は、引き受けるべきかどうかを悩みます。しかしバーニー・プライドを失った心のすきまを埋めるために、初めての依頼を引き受けることにします。
自殺したマーク・カレンダーはケンブリッジ大学の学生でした。それが突然退学して、住み込みの庭師として働いていました。コーデリアは邸を訪れ、首つり自殺をした現場を見ます。そして調査のために、現場で寝起きをすることをきめます。若い女性が自殺現場で寝起きをするという設定は、主人公の勇敢さや一途さをきわだたせています。
コーデリアはそこをベースキャンプとして、マークの大学時代の友人たちとの接触を試みます。マークの死は自殺ではない。コーデリアがそう確信するようになると、彼女の身につぎつぎと危険が迫ってきます。大きな枕で首つりを偽装される。尾行される。井戸に投げ込まれる。そうした困難に立ち向かい、コーデリアは次第にマーク殺害の犯人に迫ります。
コーデリアの推理には、必ずバーニー・プライドの教えが入り込みます。そして物語にはいつしか、アダム・ダルグリッシュ警視の存在が垣間見られるようになります。ダルグリッシュ警視は、亡きブライドの元上司でした。
P・D・ジェイムズは42歳(1962年)のときに、『女の顔を覆え』(ハヤカワ文庫)でデビューしました。本書はアダム・ダルグリッシュ警視シリーズとして、書きつながれることになります。今回ご紹介する『女には向かない職業』(初出1972年)は、コーデリア・グレイシリーズとくくられています。しかしこちらのシリーズはその10年後に発表された、『皮膚の下の頭蓋骨』(ハヤカワ文庫HM)の2作しかありません。P・D・ジェイムズは寡作として名高く、長編の発表はほぼ2年に1作というペースでした。しかし発表した作品は、いずれも高い評価を受けていました。
P・D・ジェイムズを読む順序としては、『女の顔を覆え』にまず触れていただきたいと思います。作家の原点は処女作にありといいますが、本書は完成された作品です。コーデリアがバーニー・プライドから教わった探偵業のノウハウは、元々はダルグリッシュ警視の推理法でした。そんな意味で、『女には向かない職業』を読む前に、処女作にあたっていただきたいのです。
――本書のミステリーとしてのおもしろさは、新米探偵のコーデリアの背景にダルグリッシュ警視が控えることで二重の視線が担保されている点にある。コーデリアは若々しく活動的だが、経験がない分やはり軽率だ。そこをダルグリッシュが補完する形になっているのである。そうした構造が、ジェイムズの巧みさを感じさせる。ヒロインの可憐さだだけではなく、そういう点にも注目して読みたい。(杉江松恋『読み出したら止まらない!海外ミステリー』日経文芸文庫P135-136)
◎エンディングの余韻
コーデリアの執拗な聞き込みは、少しずつマークの素顔に近づきます。マークは幼いころに、母を亡くしていること。マークはまじめな学生だったこと。父親のロナルド・カレンダー卿は、マークに冷淡だったこと。
本書にはさまざまな人物が登場します。いずれも個性をきちんと書き込まれており、混乱することはありませんでした。またいくつもの小道具が出てきますが、これらも一陣の風とともに、きちんとエンディングに集約されます。手つかずのシチュー鍋、ヌード週刊誌の1ページ、マークが首つりに使ったベルト、マークの実母が死に際に託した祈祷書、ロナルド・カレンダー卿のポケット、そしてブライドが遺した一丁の拳銃。
『女には向かない職業』を読みながら、読み終わるのが惜しいと感じました。本書の読みどころについて、丸谷才一はつぎのように書いています。
――嬉しいことに、翻訳がすこぶる優れてゐる。あの『弁護側の証人』(補:集英社文庫)の小泉喜美子が惚れこんで訳しただけあって、文章のはしはしに至るまで探偵小説らしい生きのよさがあり、あるいはわれわれを興奮させ、あるいはわれわれを怯えさせるのだ。(丸谷才一『快楽としての読書・海外篇』ちくま文庫P230)
ネタバレになるので、ストーリーには深入りしません。丸谷才一が書いているように、女性作家ならではの細やかさが随所に出てきます。そしてなんといっても終盤の、コーデリアとダルグリッシュ警視の対峙場面は圧巻です。さらに堅牢な砂の塔がゆるやかに崩れるようなエンディングは、P・D・ジェイムズならではのみごとなものです。探偵小説のきわめつけの余韻を、ぜひ堪能してください。
(山本藤光:2016.06.13)