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カテゴリ:日記
普及について、考える。 冬になると、ヨットハーバーに人がいなくなる。 海の上に、セイルボートが浮かんでいない。 だから不安になって、考えてしまう。 春になったら、ちゃんとみんな戻ってくるんだろうか・・・。 この季節の、僕の悪い癖だ。 --------------------------- 僕はセーリング競技が好きというわけではない。 辛いし。 怖いし。 でも、一度はじめてしまったのが、運の尽き。 「負け逃げは大嫌い」という感情だけで、人生のかなり長い時間をこの競技につぎ込んでしまった。 高校も、大学も、2番や3番ばかりだった。 社会人になってからは、スナイプ全日本で早々に勝つことができたが、調子にのって世界へ出たら、負けてばっかし。 負けず嫌いの性格のせいで、この競技から抜け出す時期を見失った。もう意地になって、やり続けるしか仕方がない。 だからなのか。 自分が払った犠牲の大きさゆえに、この国での、セーリング競技の認知度の低さが許せない。昔から、ずっと。 僕が学生時代には、“ニッポンチャレンジ”があった。まだ今よりはマシだった。夢も見れた。 でも、ニッチャレの消滅とともに、セーリングがメディアに登場する機会は激減した。 セーリング競技の認識を一般大衆に広げる可能性は、ここで無くなった、と言ってもいいだろう。 このままで、いいのか。 このブログをはじめたり、KAZI誌での連載を続けたり。それらも、そんな気持ちが動機なのだ。 最初は「僕がこのセーリング界をデザインし直してやる」という意気込みもあった。 いまはどうだ。 やっぱり僕には、力不足の役不足。 思い上がりもいいところ。 何一つ、変えることはできなかった。 長年、海のうえをチョロチョロ帆走り続けて、いま感じていること。 やっぱり、セーリング競技なんて、この国で普及するわけがない。 だって、道具(ヨット)が高額なんだもの。 野球やサッカーだってお金が掛かるのに、それでも一般大衆に愛される庶民のスポーツだ。 ヨットには、どうしても“お金持ちの趣味”という先入観がつきまとう。 欧米のような階層社会なら、セーリング競技に抱くイメージは違うのかもしれない。 でも、ここは日本なのだ。 巨人の星とタイガーマスク。 そして、あしたのジョー。 古来より、この国の競技スポーツでは、その成功とともに貧困から這い上がる姿が、美徳とされてきた。 大衆は、自分たちと同じ、もしくは自分たちよりも辛い境遇から成功した人間を、評価し、応援し、共感する。(そして、成功しすぎたら、妬む) 「ヨット」という言葉は、庶民には「自分とは住む世界が違う」と連想させる。 外車で乗馬クラブへ通う人。 劇場へオペラを観に行く人。 白いヨットに乗っている人。 受ける印象に、違いは無い。 そんなイメージがはびこる中で、セーリング・アスリートが、一般大衆から共感や評価が得られるだろうか。 このままでは、むずかしい。 でも、ゴルフやフィギアスケートだって、お金が掛かる。 なのに、競技の認知度は、ヨットと比べれば格段に上だ。 何が違うのか。 テレビに映る回数が違う。 新聞に掲載される回数が違う。 セーリング競技は、一般大衆にとっては“見たことがないスポーツ”なのだ。 見たことがないものに、興味を抱くわけがない。 見たことがないものを、はじめるわけがない。 だから、次のように考える。 (1)認知度を上げる為の「見せる(=魅せる)セーリング」 (2)競技者・愛好者を増やす為の「はじめやすいセーリング」 この2つを徹底して追求することが、セーリングを普及するための唯一の策ではないか。 どうだ、違うか? 次回に続く。 がお~。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jan 23, 2014 07:24:20 AM
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