MY DISCO STYLE■ MY DISCO STYLE ■ティーンエイジャー時代のなつかしい思い出・・・自分の場合、その多くは「DISCO」が舞台だった。 このコラムは自分がディスコデビューした1977年から卒業した1982年までの5年間の思い出だ。 この頃のディスコに関する見解や思い入れは人それぞれだと思うが、自分なりの主観も交えて薀蓄を語りたい。 自分はもともと音楽が好きで、小学校6年の頃から当時大流行だったフォークギターにはまった。 FやBm等のコードの時、全部の弦を鳴らせるかどうかが上手・下手の分かれ目だった。 中学校に入学した頃は、スリーフィンガーをピックで弾けたので、同年代からは一目置かれる存在になった。 私と同じ世代なら、フォークソングというのは必ず誰しもが経験してきた分野だと思う。 当時流行したアーチストは南こうせつとかぐや姫・吉田拓郎・井上陽水・アリス。 渋いところで、当時はまだまだマイナーだった荒井由美・オフコース等。 ギターを教えて!と連日同級生や後輩の女の子に囲まれる幸せな日々を送った。 (ヤングラブ ヤングラブ ねましょう って曲で後にアイドル歌手になった子もこの中にいたらしく、デビュー時の雑誌インタビューで「憧れの先輩が文化祭でフォークを歌ってそれが歌手になるきっかけだ」と書かれていたのを後から知って、「クソォ・・・」と思った) そんなわけで、中学1年・2年の2年間は、ギターが上手いか下手かで勝負が決まった時代であった。 しかし中学3年・1976年秋以降はフォークブームは終焉を向かえ、ロックやソウルが主流になった。 深夜放送でもフォークソングよりもソウルミュージックの方が比率が高くなっていった。 学校でもフォーク派・ロック派・ソウル派に分かれ、アウトローな連中はキャロルやクールス等のロックに流れ、さらにとんがった連中がソウルに流れた。 その時たまたま私の周りにいたのが、とんがった連中+年上の先輩達。 中学校以外の上下関係の厳しい活動での知り合いだ。 翌年その先輩に引き連れられ、無理矢理連れていかれた遊び場・・・それがDISCOだった。 最初に連れて行かれたのは新宿駅南口のGET。 当時の南口といえば、小便臭く雑然とした町並みにパチンコ屋が立ち並ぶ、非常に柄の悪い場所であった。 そんな町の小さい雑居ビルの4階に、その店があった。 ちなみにファッションは、絶対逆らえない先輩から「アイビーで決めろ!」と命令されたので、ナケナシの金でブレザー+チェックのパンツ+ローファーを買ったのを覚えている。 髪型はアイパーだったので全然似合っていなかったが・・・ 噂では、ディスコは暴走族のたまり場とか不良少女のハキダメのような感じだったが、GETは違った。 ビシっとアイビーで決めたお兄さんや、デパガらしきおしゃれなお姉さん達が、深夜放送で聞いたことのある曲で2列か4列に揃って、前後左右ステップを踊っている。 いやぁーたまげた たまげた。そこに入り込む余地は全く無い。 自分はなんの予習もしなかったので、その日は終日壁の花どころか席を立つことすら出来なかった。 でも、その衝撃的ともいえるディスコとの出会いをきっかけに、自分の人生は大きく変わり始めた。 まず、ステップは公園などで先輩に教えてもらい、曲はラジオ(AM)からカセットに録音して覚えた。 2回目に行ったのは、新宿駅南口と東口の間の「ソウルトレイン」だった。 そこはGETの客層とは大きく違い、恐いツッパリ兄さん・姉さんのたまり場であった。 ちょっと裏の方からは喧嘩っぽい罵声が聞こえてくる。 店員も黒服とは大違いの怪しい連中オンリー。 ただでさえ薄暗いのに店内全体が不気味で、慣れるまではトイレに一人で行けないほどの緊張感があった。 最初行ったGETが例外で、ソウルトレインこそ標準的な客層だと後から知った。 というわけで、70年代のディスコというと、とかく「歌舞伎町のきらびやかな大箱」というふうに言われているが、自分にとってはそれより「南口の狭く薄暗いフロア」というイメージが強い。 歌舞伎町が脚光を浴びるのは、もう少し後になってからだと記憶している。 その自分がディスコに通った1977年~1982年までの記憶をたどってみた。 MY DISCO STYLE 1977 MY DISCO STYLE 1978 MY DISCO STYLE 1979 MY DISCO STYLE 1980 MY DISCO STYLE 1981 MY DISCO STYLE 1982 学生ツアー PART1 学生ツアー PART2 学生ツアー PART3
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