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カテゴリ:歌舞伎・伝統芸能
この年末、12/30に南座の顔見世公演がテレビで放送されると発表された。
演目は昨日書いた昼の部の「壽曽我対面」と 夜の部の「仮名手本忠臣蔵から五段目、六段目」である。 今日はその五段目、六段目」について。 「五段目、六段目」というのは「お軽と勘平」の物語で、 今回のお軽は中村時蔵、勘平は片岡仁左衛門だ。 ざっとあらすじをいえば、 お軽の父親で勘平の舅である与市兵衛が殺されてしまう場、 お軽が花街に売られていく場、 お軽の母親おかやが、与市兵衛の死に疑惑を持ち勘平を問いただす場、 そして勘平の切腹がクライマックスである。 私は「Wife」という隔月刊で、「歌舞伎の中のWifeたち」と題し、 歌舞伎に出てくる妻たち、母たちの人生にスポットを当てた読み物を1年がかりで書いていく。 この12月から連載を開始したが、 第1回めはこの「五段目、六段目」を取り上げている。 (12月といえば忠臣蔵、ですからね) ここでの「Wife(妻)」はお軽とその母おかや。 私はこの段を見るたびに、 夫を殺され娘を売らされ一人ぼっちになってしまったおかやの心情を思い ぼろぼろに泣いてしまう。 この段の真の主役がおかやであることは、 かの橋本治も「浄瑠璃を読もう」の中で言及しているからマチガイない。 私の理想のおかやは坂東竹三郎、あるいは中村東蔵だが、 今回、南座のおかやはその竹三郎。 いや~、今回も泣いた、泣いた。 全体の流れについては 中村勘九郎の勘平についてのレビューや 尾上菊五郎の勘平についてのレビュー、 市川猿之助の勘平についてのレビューでおさえていただくとして 今回は「仁左衛門型」とも言われる勘平について書きたい。 彼の「合理的」とさえ感じられるリアリティーの追求は、 「型の美しさ」で見せる江戸の歌舞伎も、 「もととなった浄瑠璃(文楽)の世界を重視する」上方歌舞伎も取り入れ、 独特の雰囲気を醸し出す。 1.なぜ勘平は人とイノシシを見間違えたか 手元の明かりに火縄銃の種火をくるくると回しているが、 木のぶつかって火が消え、まったくの暗闇になってしまう。 いわゆる「だんまり」という、暗がりの中での芝居は多いが、 「こりゃほんとに何も見えないんだな」が見ている観客にも自然と伝わってくる流れだ。 この「火縄クルクル」は何度も見ているが、 「しまった!(さっきもらい火したのに)また火が消えちゃった!」が見えたのは 今回が初めて。 2.いい人のはずの勘平は、なぜ間違えて撃ち殺した男から金を奪ったか 仁左衛門の勘平は、死体と花道の間を何度も行き来する。 人をあやまって殺してしまったとき、 「そこから逃げたい」「でも救いたい」「ごめんなさい」から 「あ、あのお金…」「あれがあったら…」に変わり、 「えっとたしか死体はここらえへん」「あったあった」 「堪忍してください」「ありがとうございます」「やったやった!」になっていく、 それらすべてを「だんまり」で表現している。 「勘平」だからではなく、 私たちも彼と同じ境遇だったらきっとこんなふうになってしまうだろうすべてが 表現されていくのである。 3.勘平が浅黄の紋付を着た理由 上方歌舞伎と江戸歌舞伎の違いは、勘平がいつ「紋付」に着かえるかである。 上方歌舞伎では、家に帰ると普段着、 江戸歌舞伎では最初から紋付である。 仁左衛門の「(いつもなら普段着だが)今日は紋付だしてくれ」と女房に言う、 そのうれしそうな顔。 あの「50両」で、自分は武士に戻れるんだ、それを晴れ着で家人に報告したい高揚感が その後の悲劇といっそうのコントラストを生じさせる。 こうした「ストーリーの深み」と着替えを1回で済ませられる「合理性」を いずれもおさえられる演出が素晴らしい! 4.「そんなにお疑いなら私の腰をしっかりとつかんでいなされ」の心情 赤穂の浪人2人がやってくる。迎え入れようとする勘平に、おかやは「逃げるな」とすがる。 「逃げません」の勘平との押し問答。 ここでの仁左衛門と竹三郎が今まで見た勘平とおかやとまったく違っていた! おかやの必死の押しとどめに勘平は抵抗を止め、棒立ちとなり茫然と空を仰ぐ。 おかやは棒立ち勘平にしがみつきながら、顔をうずめて号泣する。 勘平は、 静かに、やさしく、物悲しく、「なさけない…」とつぶやいて、 おかやを包み込むように腕をまわして語りかける。 「そんなにお疑いなら私の腰をしっかりとつかんでいなされ」と。 まるで母がどこかに行かないか不安でたまらぬ子どもの手を導くように、 おかやの手に自らの手をかさねて自分の着物をつかませるのである。 愛が見えた。 よき家族だったのだ。 恨みとか憎しみとかではなく「なんで」という気持ちだけが渦巻いていた。 4.勘平はいつ切腹するか 上方歌舞伎では皆がうろうろしている間に勘平は舞台奥に後ろ向きになり、 何やらごそごそやっているのが観客にはまどろっこしい。 あー、男2人女1人いながら、誰も気づかないのかよー、という感じ。 そこを、仁左衛門は、小刀をさっと握って正面向いて腹を突き刺す。 目にも止まらぬ速さである。 観客さえもふいを突かれる。文字通り「あっという間」だ。 あれでは誰も止められまい。 「あそこで気づいていれば」という悔いは成り立たない。見事。 5.上方歌舞伎だが「いろにふけったばっかりに」あり 猿之助版も薪車版も、「上方」にこだわる人は紋付の問題とともにこのセリフにもこだわる。 なぜなら「浄瑠璃にはない」ものだから。 しかし仁左衛門はこれを採用した。 彼は常々「浄瑠璃が基本」といっている人だけれど。 ここが彼のすごいところだな、と思う。 それだけではない。 「いろ(情人)」=お軽であることから、 そう呟いた直後、母のおかやの手前、一瞬ハッとする手の込みよう。 「魔がさして悪いこともするけど、勘平ってネはいい人だな」 バカな男かもしれないけど、決してヤな男じゃない。そこが観客に伝わる。 刀を鏡に見立てて髪を直すところも、 あわてて身づくろいしていたら刀がゆるんで偶然抜き身が少し出る。 そこに自分の顔が映ったので、思わず髪を直す、というストーリーなのである。 決して「そうそう、髪も直さなくちゃ」と刀を自ら少しずらすんじゃありません。 うーん、 だからにざさんの舞台は「別物」なんだよね。 基本にのっとっていながら、「仁左衛門型」。 どんなお役も、オリジナリティが光ります。 必見ですよ、皆様。 南座はてんこもりでありまして、書きたいこといっぱい。 明日もまだまだ続きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.12.30 23:51:57
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