ジョン・ケア―ドの“転生”「ハムレット」
いったい何種類の「ハムレット」を観てきたことだろう。最初に観たのはテレビ。何もないスタジオの中で、「尼寺へ行け!」の部分だけを一人芝居のようにやっていた。黒のタートルセーターを着たあの人は誰だったか。若き近藤正臣だったような、違ったような…以来50年くらい経つ計算となる。蜷川幸雄が鬼籍に入った今、これからのシェイクスピア劇はどうなっていくのか。ジョン・ケア―ドの「ハムレット」を見に来た人は、みなそんな「ポストNINAGAWA」を占う気持ちを少なからず持って劇場に集まってきたのだと思う。ジョンの演出が、俳優たちに「考えさせる」演出であることは、よく知られている。ワークショップを通して自分の演出プランを丁寧に説明するが、基本は役者に任せる。役者はジョンの意図を理解しながら、役者としてシェイクスピアのセリフと向き合う。セリフの向こう側に生身の人間の感情を見出し、汲み取れるか否か。それを今生きる観客の人生と共鳴させられるか。それは、役者の力量にかかってくる。シェイクスピアはコトバ・コトバ・コトバだ。今回、全体的に俳優たちはセリフに追いかけられ、早口に詰め込むのが精いっぱいな人が多かった。冒頭、輝きを放っていた内野ハムレットも、後半は疲れて来たのか何度も言い直す場面があった。言い直してしまうと、観客はそこにハムレットではなく内野聖陽という役者を感じてしまう。(「ガラスの仮面」風にいえば、「仮面がはずれる」??)観客の緊張の糸がそこでふと緩んでしまうのは、非常にもったいなかった。クローディアスの国村隼、ボローニアスの穣晴彦という2人のベテランが、期待に反して存在感が薄かったのも残念だった。政争の泥の中を泳ぎ進む鉄の鎧に覆われた狡猾な外の顔と、ナイーブで子煩悩、あるいは愛を求めて迷う内面と、二面性は際立たず、善人なのか悪人なのか、どっちつかずになってしまった。その分ベテランで気を吐いたのが村井国夫だ。役者としてギリシャ悲劇の一節を語るところは、ハムレットに「to be or not to be」を突き付ける非常に大切な場面。ここからすでに威厳に満ちている。そしてクローディアスの悪事を暴くための劇中劇で、クローディアスにあてつけた王の役。彼がクローディアスの方がよかったのでは?と思うくらい。そして墓堀り。セリフの中のウイットをしっかり自分のものにしてから声に出している。セリフが示す情景をしっかりと落とし込んでいた俳優がもう一人。レアティーズ役の加藤和樹だ。オフィーリアに恋の危うさを説くときの心配な様子。家族3人で幸せに笑う様子。妹がなぜ正式に埋葬されないのか。くってかかる抗議と哀しみの爆発。それは「レアティーズ」ではなく「今そこにいる妹思いのお兄ちゃん」の姿だった。だから心に沁みた。「僕を殺したことがハムレットの罪になりませんように」心から神に願う最期の美しさが際立った。ところで、ジョンの今回の演出の特徴として、「一人何役も務めること」が挙げられている。しかしこれは演劇ではよくあることで、演劇ファンなら折り込み済み。とはいえ「ヘンリー六世」で大竹しのぶが前半ジャンヌダルクとして死んだのに、後半王妃マーガレットとして元気に登場したときは、わかっていても「え…?」って思ってしまったのだが(笑)。蜷川にとって最後の「ハムレット」となった藤原竜也の2度目の「ハムレット」でも、平幹二朗が先王とクローディアスの二役をやった。それと今回と、どこが違うのだろう?ハムレット役の内野がフォーティンブラスも演じる。ここだろうか。パンフレットを読むと、これは単なる「二役」ではない。「ハムレットは自分がなるべきだった王=フォーティンブラスになって蘇り、 オフィーリアは浅はかなオズリックとなってハムレットの死に立ち会うのです」これがジョンが仕掛けた「二役」の意味なのである。……それがどのくらい、俳優たちに伝わっていたのかどうか。フォーティンブラスの最後の演説に、私はハムレットを感じなかったし、オフィーリアに至っては、「なんでこんな一本調子のオズリックなんだろう?」が頭について離れなかった。たしかに、通常のオズリックのように愚かな追従者の道化役をやったしまってはジョンの演出に反する。オズリックの姿をしたオフィーリアでなくてはならない。オズリックの瞳の中には、オフィーリアがいなくてはならない。ハムレットが「暑い」といえば「暑い」、「寒い」といえば「寒い」というオズリックは、オフィーリアとしてハムレットと対峙した長い廊下の問答のときと同じように、ハムレットの言っていることがよくわからない、不安の中での受け答えを彷彿とさせなければ!貫地谷しほりのオフィーリアは出だしがとても素晴らしかっただけに、その後の不安→狂乱→オズリックという変化を深いところで演じきれなかったうらみが残る。まあ、オフィーリアは本当に難しい役なので、初役の人については次に期待です。皆、蜷川さんに演出「される」ことに慣れちゃったのかもしれないね。彼がイギリスRSCの役者たちと「リア王」をやったときに、とにかく彼らがセリフにこだわり、論理的に、言葉で役を理解しようとしていたことにカルチャーショックを受けていたっけ。ジョンもイギリス人。そしてシェイクスピアはイギリスの文化。彼と何度も仕事をした村井国夫がもっとも彼の元で自分が何をすべきか、彼の演出の中で俳優のなすべきことの大きさをわかっていたのかもしれない。パッションを引き出されるのを待っているのではなく、テキストから自分で像を結んでいく真の本読みの力が役者には必要なのだとつくづく思いました。