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カテゴリ:真理・シルバーバーチの霊訓
9-a (思念には本当に実態はあるのか)
これはとても興味ぶかい問題です。思念にも影響力がある---このことには異論はないでしょう。思念は生命の創造作用の一つだからです。ですから、思念の世界においては実在なのです。が、それが使用される界層(次元)の環境条件によって作用の仕方が制約を受けます。 いま地上人類は五感を通して感識する条件下の世界に住んでいます。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだテレパシーによって交信し合える段階までは進化していないということです。まだまだ開発しなければならないものがあります。地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた霊的存在ということです。その条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形体をとるまでは存在に気づかないからです。 思念は思念の世界においては実在そのものです。が、地上においてはそれを物質でくるまないと存在が感識されないのです。肉体による束縛をまったく受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。私の世界では霊の表現または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。 勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。これも正しい視野で捉らえなければいけません。 『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.179-180 ***** 9-b [41-o] (愛の念や心に思うことはすべて力になるのか) - 夫を事故で亡くしたある婦人へのことば(続) - なります。ご主人は頼りになるものをあなたに求めておられるからです。ご主人はまだ地上の雰囲気の中にいること、これからも当分いまの状態が続くこと、したがって私たち霊よりもあなたの方が近づきやすいという事実を理解しなければなりません。ご主人はあなたが動揺したり躊躇したり疑ったりしない人間であってほしいのです。ですから、あなたが岩のように堅固であれば、そのことがご主人に安心感を与えます。愛と援助の念を送ってあげれば、それがご主人を『安心』の衣で包んであげることになり、それが何よりの援助となりましょう。 『シルバー・バーチの霊訓 (2)』(近藤千雄訳) 潮文社、1985、p.45 ***** 9-c[46-z] (人間が他界した直後には言語上の問題があるか) あります。いわゆる "幽界"、つまり地球にもっとも近い界層においてはあります。そこには霊的自覚がほとんど芽生えていない者が住んでおります。まだ言葉が必要だと思い込んでいるので言葉を用いております。 ----さらに、「一方が英語で話し相手がフランス語で話しても、実際は思念で通じ合っているわけでしょうか」という質問に対して---- もちろんです。もともと思念には言語はないのです。言語というのは思念を単語に移しかえるための道具にすぎません。私たちの世界では思念に実体があり、物質は影のようにしか見えないことをよく理解してくださらないといけません。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 85-86 ***** 9-d (霊界では思念が霊的実在として具現化する) あなたは自分が思考していることを自覚していらっしゃる。が、思念は見えることも聞くことも、重さや大きさを計ることもできない。物理的な計量方法がないわけです。なのにあなたの行為のすべてに思念が責任を負っています。思念の方が行為に先行しているからです。思念なくして行為は生まれません。 あなた方の世界では考えたことが行為として具体化します。私たちの世界では考えたことが霊的実在として具現化し、それには、あなた方にとって物質の世界が実感があるように、私たちにとって実感があります。要は相対上の問題です。あなた方にとって物質に実感があるように、私たちにとっては思念に実感があるということです。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p. 88 ***** 9-e (各自の思考とは別に霊界にも客観的存在物はあるか) ----この質問にゲストの一人が「私たちは今この部屋に座っていいます。そして、そのことをみんな同じように認識しています」と口添えすると---- でも、その認識の仕方は一人ひとり違います。私たちの世界の生活にはさまざまな存在のレベルがあります。といってそれが一つひとつ孤立しているのではなくて、お互いに融合しております。各レベルにおいてあなたのおっしゃる客観的存在物がそこに住む人にとって同じように映ります。丘があり川があり、小鳥がさえずり、花が咲き、樹木が茂っております。そのすべてに実感があります。 それとは別に、思念によって実在物を作り出す力も各自に具わっております。成形力のある思念性の素材によって、自分に必要なものをこしらえることができます。それが、程度問題ですが、それなりの固体性のある実体を具えているのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p. 89 9-f [46-zf] (霊界の生活にも地上と同じ朝・昼・夜の変化があるのか) こちらへ来て間もない初期の段階ではそういうことがあります。まだ新しい霊的環境に順応していないためです。霊界の低い界層、いわゆる幽界の環境は地上とそっくりです。これは新参者が感覚を馴らしていくための神の配慮です。 そうしないと新参者は戸惑うのです。そうしたことから、今おっしゃった人のように、霊界へ来てからも朝と昼と夜の生活があるように思っている霊がいることになります。そう思うからそうなるのです。私たちの世界は思念が実在となる世界です。悟りが芽生えるまではその過渡的な状態がつづきます。それとは別に、あとに残した人の援助がしたくて、あえて霊的向上を望まないというケースもあります。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.114-115 ***** 9-g[24-n] (地上の物的財産が無くなれば霊界では貪欲も無くなるか) いわゆる幽界でも低級な境涯にはまだ貪欲とか権力欲とかが存在します。忘れてならないのは、死んだ人間は霊的には死ぬ前とまったく同じであることです。地上と違って霊界は思念が実在の世界です。心に思うことに実体が伴い実感があるのです。 私たちから皆さんを見ると、身体は影のように見え、皆さんが心に思っておられることの方が実体があります。このことはなかなか説明が難しいのですが、たとえば皆さんが夢を見ているのと同じだと思えばよろしい。夢の中に現れるものは夢を見ている間は実在です。もしも永遠に目覚めなかったら夢の世界がその人にとって実在の世界となります。乗る船も飛行機も、訪れる国も、夢の中ではみな実在です。 こちらの世界では思念がすべてのものをこしらえる素材です。ですから心に思うことがみな存在するわけです。食欲と権力欲をもったままこちらへやって来れば、それがこちらでは無用のものであることに気づくまで、それを持ち続けます。そうした地縛的状態から解放される段階まで成長すると、ようやく救われることになります。(これが本当の意味での"成仏する"ということ- 訳者) 困ったことに、権力欲や強欲は霊を地上へしばりつけます。身体的に死んでいますが、同時に霊的にも死んだも同然の状態です。波長が私たちより人間の方に近い状態です。そこで同じ欲に燃えた地上の人間と感応し合って、その欲望を増幅してまいります。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp.71-72 ***** 9-h (あなたの言うことも思うことも生活の一部である) 生活は『行い』だけで成り立っているのではありません。『言うこと』も『思うこと』も生活の一部です。行為だけが大事と思ってはいけません。もちろん行為が一ばん大事です。が、口にする言葉も心に思うことも、あなたの一部です。その思念がコントロールできずに、それに振り回されている人間が多いのは悲しいことです。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) ***** 9-i (地上では思念が物的形態をとるまで存在に気づかれない) いま地上人類は五感を通して感識する条件下に住んでおります。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだテレパシーによって交信し合える段階までは進化していないということです。まだまだ開発しなければならないものがあります。地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた霊的存在ということです。この条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形態をとるまでは存在に気づかれないからです。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、p. 227 ***** 9-j (思念は思念の世界においては実在そのものである) 思念は思念の世界においては実在そのものです。が、地上においてはそれを物質でくるまないと存在が認識されないのです。肉体による束縛をまったく受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。私の世界では霊の表現、または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。これも正しい視野で捉らえないといけません。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、p. 227 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Dec 31, 2010 06:44:51 AM
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