36-2があります『次の日記』で進んでください
36-a (私たちは自分で最適な環境を選んで生まれてくる)
地上に生を享ける時、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ないだけの話です。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988, p.38
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36-b (霊はいつ肉体に宿るのか)
霊としてのあなたは無始無終の存在です。なぜなら霊は生命を構成するものそのものであり、生命は霊を構成するそのものだからです。あなたという存在は常にありました。生命力そのものである宇宙の大霊の一部である以上、あなたには始まりというものはありません。が、個体として、他と区別された意識ある存在としては、その無始無終の生命の流れの中のどこかで始まりをもつことになります。受胎作用は精子と卵子とが結合して、生命力の一分子が自我を表現するための媒体を提供することです。生命力はその媒体が与えられるまでは顕現されません。それを地上の両親が提供してくれるわけです。精子と卵子が合体して新たな結合体を作ると、小さな霊の分子が自然の法則に従ってその結合体と融合し、かくして物質の世界での顕現を開始します。私の考えでは、その時点が意識の始まりです。その瞬間から意識をもつ個体としての生活が始まるのです。それ以後は永遠に個性を具えた存在を維持します。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986, p.173
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36-c (霊は妊娠中のどの時期に宿るのか)
異議を唱える方が多いことと思いますが、私は二つの種子(精子と卵子)が合体して、ミニチュアの形にせよ、霊が機能するための媒体を提供したとき、その時が地上生活の出発点であると申し上げます。
『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986, pp.53-54
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36-d (霊魂はどこから来るか)
[A]
あなたのご質問には誤解があるようです。あなたがた人間が霊魂をこしらえるのではありません。人間がすることは霊魂が自我を表現するための器官を提供することだけです。生命の根源である"霊″は無限です。無限なるものに個性はありません。その一部が個体としての表現器官を得て地上に現れる。その表現器官を提供するのが人間の役目なのです。霊は永遠の存在ですから、あなたも個体に宿る以前からずっと存在していたわけです。しかし個性を具えた存在、つまり個体としては受胎の瞬間から存在を得ることになります。霊界にはすでに地上生活を体験した人間が大ぜいいます。その中にはもう一度地上へ行って果たさねばならない責任、やり直さなければならない用事、達成しなければならない仕事といったものを抱えている者が沢山います。そして、その目的のためのチャンスを与えてくれる最適の身体を求めているのです。
『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.62-63
[B]
その質問は表現の仕方に問題があります。霊魂はどこから来るというものではありません。霊としてはずっと存在していたし、これからも永遠に存在します。生命の根源であり、生命カそのものであり、神そのものなのです。聖書でも"神は霊なり″と言っております。ですからその質問を、個性を与えた霊魂はどこから来るのか、という意味に解釈するならば、それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ、とお答えしましょう。
『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.71-72
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36-e (自分で人生を選んで生まれてくる)
地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につけるうえでそのコースがいちばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです。その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを承知のうえで生まれて来ているのです。その人生を生き抜き困難を克服することが内在する資質を開発し、真の自我ーーより大きな自分に、新たな神性を付加していくのです。
その意味では "お気の毒に・・・・" などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨することもないわけです。こちらの世界は、この不公平や不正がきちんと償われる世界です。あなた方の世界は準備をする世界です。私が "魂は知っている" と言う時、それは細かい出来ごとの一つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースを辿るかを理解しているということです。その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くということは、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。例えば予期していた悟りの段階まで到達しないことがあります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻って来ることになります。それを何度も繰り返すことがあります。そうしているうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.109-110
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36-f (霊はどの段階で身体に宿るのか。受胎の瞬間か胎動期か)
この間題はこれまで何度も尋ねられました。そしていつも同じお答えをしております。生命は受胎の瞬間から始まります。そして生命のあるところには必ず霊が存在します。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.46
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36-g (受胎の瞬間から霊が宿り、そこから個性が発達していくのか)
個性という用語を持ち出されるとまたややこしくなります。生命は霊であり霊は生命です。両者は二つにして一つです。受胎と呼んでいるものは、そこに生命があるということを意味します。受胎がなければ生命は存在しません。したがって霊は受胎の瞬間に物質に宿ることになります。
その後の発達の問題ですが、これは環境条件によって異なりますのでさらに問題がやっかいです。受胎時に宿る霊も、霊としてはそれまでずっと存在していたのです。ですから、個性の問題は、その個性よりはるかに大きい霊全体のどの部分が表現されるかの問題となります。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.46-47
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36-h (受胎後のどの段階で人間となるのか)
受胎の瞬間から生命が存在し、したがって霊が存在します。流産とか中絶とかがあっても、それは生命を破壊したことにはなりません。その生命の表現の場をあなた方の世界から私たちの世界へと移しただけです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p. 47
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36-i (子宮内の生命もれっきとした人間なのか)
潜在的には受胎の瞬間から人間であり、人間性のすべてを宿しております。受胎の瞬間から身体的機能のすべてを潜在的に宿しているごとく、霊的機能もすべて宿しております。霊的機能が存在しなければ身体的機能も存在しません。物質は霊の影だからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 47-48
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36-j (霊は誕生に際して地上の身体をみずから選択する自由はないのか)
(自由がないと理解するのは)正しくありません。逆に、霊はあらゆる自由が与えられています。大半のケースにおいて、霊は地上で果たさねばならない目的をもって生まれてきます。そしてその仕事に合った身体に宿ります。ただ、自分は地上でかくかくしかじかのことをしょうと決意したその仕事に実際に目覚めるまでに相当な時間を要します。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p. 48
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36-k (産児制限は自然法則に干渉することになるから間違いか)
いえ、間違ってはいません。経済的理由、健康上の理由、その他の理由でそうせざるを得ないと判断したのであれば、出産を制限することは正しいことです。この間題でも動機が大切です。何ごとも動機が正当であれば、正しい決着をみます。出産を制限することもその動機が正しければ、少しも間違ったことではありません。しかし、霊の世界には地上での生活を求めている者が無数にいて、物的身体を提供してくれる機会を待ちかまえている事実を忘れないでください。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 129-130
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36-l (妊娠中絶はいけないとするとそれはどの段階からか)
中絶行為をしたその瞬間からです。
・・・・・とにかく中絶の行為がなされた瞬間から、それは間違いを犯したことになります。いいですか、あなた方人間には生命を創造する力はないのです。あなた方は生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から霊はその女性の子宮に宿っております。中絶されればその霊は、たとえ未熟でも霊的身体に宿って生き、生長しなければなりません。中絶によって物的表現の媒体を無きものにすることはできても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児のせっかくの自然な生長を阻止したことになるのです。もっとも、これも動機次第で事情が違ってきます。常に動機というものが考慮されるのです。
私の住む世界の高級霊で人工中絶を支持している霊を私は一人も知りません。が、動機を考慮しなければならない特殊な条件というものが必ずあるものです。行為そのものは絶対にいけないことですが......
あなた方が生命をこしらえているのではないのです。したがってその生命が物質界に顕現するための媒体を勝手に減ぼすべきではありません。もしも中絶を行っている人たちが、それは単に物質を無きものにしたことで済んだ問題ではないこと、いつの日かその人たちは(医師も含まれるー訳者)その中絶行為のために地上に誕生できなかった霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなるものと私は考えております。妊娠の瞬間からそこに一個の霊としての誕生があり、それはけっして死ぬことなく、こちらの世界で生長を続けるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 130-132
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36-m(堕胎された霊はいつかまた誕生してくるのか)
そうです。責任は免れません。物質界への誕生の目的が自我の開発であり、そのせっかくの機会が叶えられなかった場合は、もう一度、必要とあれば何度でも、再生してきます。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p. 132
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