9月は本当に忙しかったので、へばった。
8月も休んでないので、急遽本日休みを取ることにした。
彼女も休みをとり、せっかくだから何かしようということになり、彼女がまだ鎌倉に行ったことがないということで、鎌倉に行くことになった。
第三京浜から横浜横須賀道路に抜けて、朝比奈ICで降りた。
そこから鎌倉市内に入る道は込んでいたが、何とか若宮大路の駐車場に止めることができた。
先日、『QED ~ventus~ 鎌倉の闇』(以下、「QED」)を読んだばかりだ。
ので、鎌倉は非常に今俺の中でホットなスポットである。
前のブログでは、この本をあまり評価していなかったが、観光に先立ち、読み返してみると随所に面白い記載がある。全体としてまとまりに欠けるが。
従来、鎌倉は三方を山に囲まれ、目の前は海であることで、攻め難い地形であり、したがって頼朝はここに幕府を開いたといわれてきた。まぁもっとも幕府ってなんだ、という問題はあるが。
しかし、この本によれば違う。頼朝公には、鎌倉以外に土地がなかったのである。当時の鎌倉はずっと海岸線が入り込んでおり、泥沼もいいところの湿地帯であったという。政子の安産を祈願して鶴ヶ丘八幡宮から由比ガ浜まで作られた段葛は、実はそうやって土を盛り上げて道としなければ、当時はとても交通できるものではなかったからだという。おもしろい。
まずは、鶴ヶ丘八幡宮だ。鎌倉の代名詞とも言えるこの八幡宮。八幡は応神天皇に比定され、源氏の氏神だと言われているが、この間読んだ『源氏と日本国王』によれば、応神天皇は源氏の祖先ではなく、これは源氏の氏神というよりも、源氏をも含めた王氏(皇族)の祖霊神だという。納得できる。
まだ小学生の頃、家族4人で鎌倉に来たことがある。行き帰りの道すがら母が鎌倉の歴史について語ってくれたが、やはり覚えているのは、この八幡宮の銀杏の木である。二代将軍頼家の子、八幡宮の別当公暁が、この大銀杏の影に隠れて、参詣した三代将軍実朝を殺害した。幼いながらに900年のときを越えて歴史的大事件を目撃したであろう大銀杏に、戦慄を覚えたものである(もっとも、この点にQEDは疑問を呈している。理由も納得できるものだが、割愛する)。
しかし、今回はあまり八幡宮には感動を覚えなかった。舞殿が修理中で覆われて絵が画かれていたことにも興ざめだったし、八幡宮は綺麗過ぎてありがたみに欠けた。むしろ、元八幡遥拝所や白旗神社の方がよかった。
QEDでは、当時の鎌倉が湿地帯であったことの証左として、頼朝が鎌倉入してすぐ元八幡(もともと八幡宮は、源頼義がたてたもので、もっと海岸線の方にあった。)を拝したのだが、湿地帯のため降りられず、山の上から拝したというのである。ふーん、と思っていたが、実際八幡宮の片隅に遥拝所があり、ああ、これかと思って感動した。頼朝は、ここから元八幡を拝んだのだ。
また頼朝、実朝を祭った白旗神社もいい。白旗は源氏を、紅旗は平家を表す。「紅旗征戎わが事にあらず」と名月記で藤原定家は述べたが、あれである。
八幡宮をあとにし、これでは周りきれないというので、駅付近で自転車を借りた。割と高い。その後、八幡宮近くの蕎麦屋に入って蕎麦を食べた。
そして、山道を登っていって鎌倉五山第一の建長寺を訪れた。
開基は五代執権北条時頼、開山は蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)である。立派な三門仏殿、法塔、庭園を眺め、にぎやかな八幡宮と違い、禅寺にふさわしく静かな佇まいの中にいると、少しく現世を忘れていい心地を覚えた。帰りしなに法塔で、たくさんの僧侶がなにやら儀式を行っているのを見られたのは幸運であった。
山道を降りて、次は鎌倉五山第三の寿福寺である。
ここの参道は鎌倉一と謳われるが、さすがに見事な参道であった。時折ふる雨が石畳を濡らし、それがまた情緒を醸し出す。
立派な寺である。
ここでは、北条政子と実朝の墓があるのだが、落石のため見ることができなかった。
ここも小学生の折、母と訪ねたことがある。あまりに質素な侘しい将軍の墓をよく覚えている。
頼朝の墓は八幡宮から東にいったところにあるが、こちらも質素である。これは源氏の将軍家など大して重くあつかわれていなかったことを表しているようだ。鎌倉幕府とは何か。それについてはまた述べるが、実に興味深い。頼朝は決して磐石の王者ではなかった。
その後、たまたま入った茶屋であんみつや、くずきりを食した。
彼女のくずきりを少しもらったが、たまらない美味しさだった。
小雨の振る鎌倉。寺社めぐりに、茶屋で甘味。忙しい毎日を忘れてしまいそうな贅沢な休日だ。
しかし、根が貧乏性の俺は、のんびりしていられない。贅沢な気持ちも束の間に、また自転車を漕ぎ出す。こうして鎌倉の小路を自転車で走り抜けるのは非常に心地よかった。懐かしい匂いがしたような気がした。
向かったのは佐助稲荷。
長い石段を登っていくと、社殿が見えた。
稲荷であるからきつねが祭ってある。QEDでは、頼朝が鎌倉に政権を打ち立てるにあたり、原住民である鎌倉党の補助を受けたとしている。そして、頼朝は鎌倉を与えられたが、鎌倉に封じ込められ、要所である切り通しはすべて鎌倉党に抑えられた。QEDでは、鎌倉党は製鉄を営んでいたという。稲荷とは稲が成る事も意味すれば、鋳が成ること、すなわち製鉄業を営んでいたのだ。
頼朝は右兵衛佐に任じられており、「すけどの」と呼ばれていた。佐助とは「佐どのを助けた」という意味なのだ。非常に興味深い。
ちなみに、QEDでは、切通しはすべて刑場であったという。去年一人で、南千住にある小塚原刑場を見に行ったことがあったが、刑場の放っているオーラはすごいものがある。ここで数々の処刑が行われていたと思うと、なにやら薄ら寒い心地がする。
佐助稲荷には俺等以外誰もおらず、淋しい湿った山の上にあり、どことなく怪しかった。非常にすばらしい神社だ。
続いて、銭洗弁財天である。これも銭を洗って財産が増えるというのは、すなわち製鉄業を意味する、という。かかる水が出るような要所は、鎌倉党が抑えていたのであろう。
鎌倉党にまつわる二ヶ所を周った後は、これも鎌倉の名物である高徳院の大仏である。寺内を進むとにわかに見え来る大仏は、非常に大きく、また荘厳である。
ここには与謝野晶子の歌碑があり、
かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼(しゃかむに)は美男におはす夏木立かな
という歌が詠まれている。
しかし、QEDにあるとおり、大仏は阿弥陀如来であり釈迦如来ではない。
どうでもいいことだが。法印を見てもわかりそうなものだ。
ここでは「こどものぶっきょうえほん」が売っていて、あまりに笑える表紙だったので、「かんのうさま」と「おしゃかさま」の2冊も購入してしまった。今度持っていくから、見たい人は言って欲しい。イノタンやドバチは大喜びだと思う。
大仏を見た後は、彼女は帰りたがった。しかし、大塔宮も見ていなければ、長谷寺も甘縄神宮も極楽寺も見ていない。
せめて、御霊神社(権五郎神社)だけは、と哀願して、なんとか訪れることができた。
ここは鳥居のすぐ前に電車が走っていて驚いた。
もともとは、大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉という平氏五家があり、これら五家の祖を祀る神社として五霊神社が建てられたのだが、御霊神社となり祭神としていつしか、武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政公一柱だけを祀るようになった、といわれている。
QEDでは権五郎も怨霊だという。詳細は述べない。
関東は源氏、と思っている方も多いと思うが、平将門の例を引くまでもなく、坂東八平氏といわれるように、関東といえば平氏である。上杉謙信の長尾家は上に挙げた平氏の一つである。
またいつか述べるが、つまり、鎌倉幕府=源氏というのは大間違いである。源平合戦だけがクローズアップされ、さも平氏から源氏に政権が移ったかのように錯覚しがちだが、本質的にはまったく違う。鎌倉幕府こそが平氏なのである(言いすぎかしら)。
また今後に譲る。
これで時間になり、駅まで戻って自転車を返した。
小町通で饅頭や煎餅を買って食べた。非常にうまかった。
非常に楽しい鎌倉紀行であった。
まだ見ていない場所もたくさんあるので、またいつの日か巡りたい。
しかし、今回鎌倉に行くという段になり、急ぎ、鎌倉関係の本を数冊読んだが、鎌倉時代というのは非常に暗い。頼朝にしても、北条政子にしても、北条家にしても。。。無論、政治というのはいつの世も暗くドロドロしたものではあるのだが、この時代は常に暗く、冷たい印象を拭い去ることができない。それゆえに民間では、義経の人気が高いのであろう。冷静に見てみると義経の鮮やかさは日本史上奇跡ともいえるそれである。
六輝=友引、九星=四緑木星、中段十二直=執、二十八宿=参、旧暦八月十三日