恩納巫により祭祀が執り行わた岩丘の御嶽@恩納村「浜崎御嶽/恩納グスク」
(浜崎御嶽/恩納グスク)沖縄本島北部の最南端で西海岸沿いに位置する「恩納村/おんなそん」に「恩納集落」があります。このムラは1531(嘉靖10)〜1623(天啓3)年に琉球王府により編纂された歌集である『おもろさうし』に「おんなやきしま」の語が度々見られ『おもろさうし第十七』は「恩納より上のおもろ御さうし」とされています。昔から「恩納集落」は琉球王国の中でも際立って関心が持たれた場所であると言われています。1673年に「読谷山間切」と「金武間切」の両地域から分割して新しく「恩納間切」が創設され、間切を統治する役所である「番所」もこの「恩納集落」に設置されました。さらに「恩納間切」を総領する役職である「親方惣地頭」も「恩納親方」と呼ばれていました。(恩納村多目的広場から見た恩納グスク)(恩納グスクの入り口)(浜崎御嶽の標識)(恩納グスクの頂上へ向かう山道)「万座毛」の近くにある「恩納村海浜公園ナビービーチ」から北側に約300mの場所に「恩納グスク」があり、丘陵の南側麓にグスクの入り口があります。『おもろさうし』が編纂される以前「恩納集落」には「赤平/アカヒラ血統」と「クーシー屋血統」の2つの古代部落が存在していました。この「恩納グスク」一帯は「赤平家」を中心とした血縁的集団が部落を形成し、部落の祖霊神である「恩納グスク」を拝所として生活を営んでいたと言われています。なお「恩納集落」の草分け的な創始家である「ニーチュ/根人」と「ニーガン/根神」はこの「赤平家」から出ています。この2つの古代部落が山間部から降り、現在「兼久」という地名なっている砂堆地で合併した土地が「恩納集落」の「古島」と呼ばれています。(浜崎御嶽の祠)(浜崎御嶽の祠内部)(平場にある霊石)(恩納グスクのアコウ)「恩納グスク」の南側頂上には平場があり「浜崎御嶽」の祠が建立されています。この御嶽は1713年に琉球王府により編纂された地誌である『琉球国由来記』に『浜崎嶽 神名 ヨリアゲノイベナヌシ 恩納村』と記されており『毎年三・八月、四度御物参之有祈願。且、年浴之時、仙香・花米五合宛・神酒二宛百姓中供之。恩納巫ニテ祭祀也。』との記述があります。祠内部にはウコール(香炉)が設置されており霊石が祀られ、御賽銭が供えられていました。「恩納グスク」の頂上には岩丘があり、約20年前まで西側に接して高さ約80cmの石垣に囲まれた施設跡がありました。その背後には石門があり降って岩丘の裏側に通じた石畳道となっていたと伝わります。さらに、この岩丘裏の岩陰の土中から人骨片が発掘され、戦前まで周辺には大きな人骨甕が2つ隠されていたと言われています。(崎浜御嶽のイビの大岩)(崎浜御嶽のイビに祀られる霊石)(崎浜御嶽のイビ)(崎浜御嶽のイビを囲む野面積み)「浜崎御嶽」の祠が向いている方向の山中には「浜崎御嶽」のイビ(威部)である岩丘が聳えており、この御嶽が鎮座する「恩納グスク」は琉球石灰岩を基盤とする標高20〜25mの丘陵に形成されています。グスク時代に構築された「恩納グスク」の前面は西海岸に面しており、現在も城壁と平場が確認できます。城壁は主に野面積みで、城壁やその周辺からはグスク土器やカムイ焼、中国製の青磁や石器、さらに獣骨や貝殻などが発掘されています。グスクの城壁の石積み技法は「野面積み→布積み→相方積み」へと変化して行ったと考えられ、現在の「恩納村」で「相方積み」の城壁が確認されているのは「恩納グスク」のみで、グスク時代初期の歴史の古いグスクであると言えます。(恩納グスクの珊瑚岩)(隆起した珊瑚岩)(珊瑚岩の岩肌)(珊瑚岩の岩肌)「恩納グスク」の南東側に続く台地一帯に「城内之殿/グスクウチヌトゥン」があり、この土地には「赤平血統」の「マキョ」と呼ばれる古代部落が存在していました。『琉球国由来記』には『城内之殿 恩納村 稲穂祭之時、シロマシ一器・麦神酒二器百姓中、五水四合両惣地頭、供之。恩納巫ニテ祭祀也。』と記されています。ノロや根神である神女が集落の祭祀の際に歌う「ウムイ/オモイ」と呼ばれる神唄があります。恩納村で「ウムイ」が残っているのは「恩納集落」のみで「舟のウムイ・海のウムイ・山のウムイ・しらちなのウムイ」があります。その中の「海のウムイ」は次の通りとなっています。『海のおもい / 六月御祭 すくとい』"にれや うぇもの かれや うぇもの すぶくだら えーくだら うちみずる うちはだら いのなぎん ひしなぎん とさばにん やさばにん ちきてたぼり"