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カテゴリ:那覇市
(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の拝所) 沖縄県那覇市の中央部に「松川(まつがわ)集落」があり、この集落は1957年12月17日に那覇市に編入合併されるまで「真和志(まわし)市」という独立した市に属していました。それ以前は、1908年4月1日に「真和志間切」から「真和志村」になり、1953年10月1日に「真和志市」になった歴史があります。現在「真和志」という名前は「真和志小学校」「真和志中学校」「真和志高校」の名称のみに残されています。この「松川集落」には「チャナザチバシ/茶湯崎橋」と呼ばれる橋が「真嘉比(まかび)川」に架けられています。この橋にまつわる有名な伝承が存在し、そこから「ムジンクジンワカラン」と言う『意味がわからない』という意味の口語が生まれ、現在も多くの沖縄の人々が使用しています。 (チャナザチバシ/茶湯崎橋があった場所) (現在の真嘉比川に架かる橋) 現在の「ライオンズマンション松川」のエントランス付近には、その昔「チャナザチバシ/茶湯崎橋」が架けられており「真嘉比川」が流れていました。この橋は琉球王国から昭和期にかけて首里と那覇を結ぶ重要な橋で、創建年は不明ですが1674年の江戸時代に木造から石橋へと架け替えられました。かつて、この辺りまで船が遡って来たと言われ、18世紀に琉球王府の行政の最高責任者である三司官を務めた「蔡温(さいおん)」は、その著書「独物語(ひとりものがたり)」で『茶湯崎に湊を造れば交通の便が良くなり、さらに商船がやってきて交易ができる。そうなれば首里に住む人々の生活も良くなる』と記しています。今日の「真嘉比川」は戦後の区画整理で本来存在した場所からマンションの東側に数十メートル程移動しています。 (真嘉比川に架かる橋の北側) (真嘉比川に架かる橋の南側) 「尚真王」(1465-1527年)の時代、和歌山県の那智から西方浄土を目指して舟を出した「日秀上人(にっしゅうしょうにん)」という、沖縄に仏教を広めた僧侶がいました。当時、那覇から首里に上る「松川」にマジムン(妖怪)が多く出て道行く人が恐れて困っていました。それを聞いた「日秀上人」は「松川」の「指帰(さしかえ)」の地にマジムンを退散させる為、1519年に「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の北側に呪文を彫った石碑を建ててマジムン退散の祈祷をしました。すると、この石碑と「日秀上人」の祈祷の力で、たちまちマジムンは退散して人々が無事に通れる道になりました。そもそもその石碑は梵字(サンスクリット語)で記されており、人々は全く読めなかったので『ムジンクジンワカランマチガーヌヒムン(文字も故事も分からない松川の碑文)』と言われるようになりました。 (チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の拝所) (チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の石碑) (チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の石碑) その後、意味がわからない事や理解できない事を「ムジンクジンワカラン」と表現するようになり、現在は更に言葉が訛り変化して「イミクジピーマン」とも言われるようになっているのです。沖縄県立図書館には首里の古い地図が保管されており「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の東側には「松川の碑文」の石碑が描かれています。この石碑は明治期までは残されていましたが、その後の道路整備のために残念ながら現存していません。しかし「松川の碑文」の石碑があった場所と考えられる場所には現在、拝所として石碑が2体祀られウコール(香炉)が2基設置されています。向かって左側の四角い石碑には微かに「金剛綘」とも読み取れる文字が彫られていますが定かではありません。正に、これこそが「ムジンクジンワカラン」であると言えます。
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最終更新日
2022.11.12 21:12:43
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