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カテゴリ:南城市
![]() (佐銘川御殿跡) 沖縄本島南部の南城市佐敷にある「新里集落」に「イビの森」と呼ばれる御嶽の合祀拝所があり、この森の東側丘陵に「佐銘川御殿跡」と呼ばれる屋敷跡があります。「尚巴志」の祖父である「佐銘川大主(さめかわうふぬし)」が暮らした屋敷が移設された史跡として残されており、この「佐銘川御殿跡」は地元では「神アシャギ」とも呼ばれています。沖縄本島北部では集落のノロ(祝女)が祭祀を行う4本柱、又は6本柱で壁のない小屋を「神アシャギ/神アサギ」と言いますが、沖縄本島中部や南部では「神アシャギ」に類似した「殿(トゥン)」と呼ばれる屋敷があります。因みに「佐銘川大主」の出身である「伊平屋島」にある「我喜屋の神アシアゲ」と「島尻の神アシアゲ」はそれぞれ沖縄県指定民俗文化財に指定されています。 ![]() (佐銘川御殿跡/平仲之元祖の祠) ![]() (屋敷の土台跡) ![]() (伊平屋御通しの拝所) 「佐銘川大主」は琉球王国の歴史書で1650年に成立した『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』には「鮫川大主」の名前で記述されています。「佐銘川大主」の屋敷は東側にある場天原の「旧場天御嶽」にありましたが、1959年10月に佐敷を襲った台風18号(シャーロット台風)で地崩れを起こし埋没していまいました。その後「イビの森」の澤川原に移築されましたが、2002年8月の台風16号(シンラコウ台風)で「佐銘川御殿」の象徴であった屋敷は全壊してしまいました。「佐銘川大主」の屋敷の土台の北側には「伊平屋御通し」の石碑が建立された拝所が残されており、現在も遥か沖縄本島の北側に浮かぶ生まれ故郷である「伊平屋島」を拝する遥拝所となっています。 ![]() (佐銘川御殿跡の標識) ![]() (佐銘川御殿跡の拝所) ![]() (佐銘川御殿跡の拝所/サミカワ御嶽の石碑) 「佐銘川御殿跡」の敷地北側にはブロックで囲まれた拝所があります。この拝所には「サミカワ御嶽」と彫られたニービ石造りの石碑が建立されており『まへ原 ち 尚巴志=当時十六才百日ニ、書キ添タ事ヲ示ス 故大城恒信、ヨシ 平成八年旧九月九日』と記されています。平成8年は1996年であり、2002年に台風で屋敷が倒壊する6年前に「佐銘川大主」の屋敷の北側に建立された拝所である事が分かります。この石碑に記されている「サミカワ御嶽」とは「佐銘川/サミカワ大主」を祀る御嶽を意味しており、屋敷の守護神としてだけではなく「尚巴志」の祖父が「佐敷」に於いて現代もなお崇められている事が表れています。 ![]() (平仲之元祖の祠内部/向かって左端) ![]() (平仲之元祖の祠の神棚) ![]() (平仲之元祖の祠の位牌) ![]() (平仲之元祖の祠内部/向かって右端) 「新里集落」に管理される「佐銘川御殿跡」の敷地内には現在も「平仲之元祖」という人物を祀った祠があります。この祠は「佐銘川大主」の茅葺き屋根の屋敷があった頃から併設されていた神屋で、内部には仏壇があり位牌、ウコール(香炉)、花瓶、湯碗、水碗が設置されています。「平仲之元祖」は「手登根大屋子」の三男腹である「大道山」の次男で「平仲大主」とも呼ばれていました。「平仲之元祖」は子供の頃の「尚巴志」を養育した人で、場天原の「場天御嶽」に移り住み「佐銘川御殿」をお守りしたと伝わっています。「平仲之元祖」には「下庫利大主」という次男がいて、その人物の長男が「石原」次男が「勢理客」三男が「佐久間」それぞれの字の始祖となっています。この為「佐銘川御殿跡」は「新里・石原・勢理客・佐久間」各門中により拝されています。 ![]() (佐敷ようどれ) ![]() (第一尚氏王統 第一代尚思紹王陵墓の石碑) ![]() (佐敷ようどれ) 「佐敷上グスク」の南側丘陵の頂上に「航空自衛隊知念分屯基地」があり、この分屯基地の中央に「佐敷ようどれ」があります。この古墓には「尚思紹王御夫婦」「舅美里之子御夫婦」「二男美里大屋御夫婦」「娘佐敷大のろくもい」「佐銘川(鮫川)大主夫婦」の9名が葬られています。当初は現在地よりも北側の崖下に位置していましたが、雨風による損壊のため1764年(乾隆29)に移築され「尚思紹王」の家族7名が葬られました。さらに1959年には「尚思紹王」の両親で「尚巴志」の祖父母である「佐銘川(鮫川)大主夫婦」が西側丘陵にあった墓から移設し合祀されました。「佐敷ようどれ」は琉球石灰岩で建造され半円型の屋根を持った籠型の独特な形をしており、門口3.3メートル、奥行2.6メートル、軒高2.1メートルとなっています。 ![]() (佐敷ようどれの石柱) ![]() (佐敷ようどれ/門口) ![]() (佐敷ようどれ/籠型の古墓) 「航空自衛隊知念分屯基地」の敷地内にあるにも関わらず一年を通して多くの参拝者が訪れます。この分屯基地の正面ゲートで身分証明書を提示し氏名・住所・電話番号を記入すると航空自衛隊の隊員が「佐敷ようどれ」まで徒歩で同行してくれます。「佐敷ようどれ」は「佐敷ゆうどれ」とも呼ばれ「ようどれ/ゆうどれ」は夕凪や静かな場所の意味を持ちます。この墓に葬られる「舅美里之子」は「佐敷上グスク」の北東約100メートルの森にかつて居住し、屋敷跡には現在「美里殿/ンザトドゥン」と呼ばれる祠が祀られています。さらに合祀されている「佐敷大のろくもい」とは「美里井/ンザトカー」で禊(みそぎ)を行なっていた「佐敷ノロ」の事で「佐敷上グスク」の敷地内には「佐敷ノロ」が祭祀を奉った「佐敷ヌル殿内」があります。 ![]() (下代樋川/シチャダイヒージャー) ![]() (下代樋川/シチャダイヒージャー) 「佐敷ようどれ」の西側約400メートルの場所で、丘陵の頂上付近の森に「下代樋川/シチャダイヒージャー」と呼ばれる井戸があります。巨大な岩の洞穴から流れ出す湧き水は急勾配な森を北側に下り、丘陵中腹の「タキノー御嶽」と「クンナカの嶽」を通り抜け「佐敷上グスク」の西側にある「洗心泉/シーシンガー」の井戸に流れ込みます。「洗心泉」は沖縄戦後のアメリカ統治下時代に「琉球列島米国政府/USCAR」に置かれた高等弁務官の資金により造られた井戸で、貯水した水は周辺住民の飲料水タンクとして使われました。現在も旧暦12月24日の「御願解き/ウガンブトゥチ」に拝されています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.06.01 13:25:54
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