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カテゴリ:本部町
(石嘉波の神アサギ) 沖縄本島の北部に「本部町/もとぶちょう」があり、この町の東側に「瀬底島/せそこじま」という離島があります。「瀬底島」の名称の由来や語源は諸説ありますが、沖縄の歴史学者である「東恩納寛惇/ひがしおんなかんじゅん(1882-1963年)」は自身の著書「南島風土記」にて『泳島(伊江島)の南に獅子島と注するもの瀬底島の事なるべし。』と記しています。「瀬底島」の北側には「イチャファ/石嘉波」と呼ばれる集落があり「石嘉波の神アサギ」が建てられています。この神アサギは南北に長く柱はコンクリート製で、屋根はセメント瓦葺きの造りとなっています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『神アシアゲ 石嘉波村 麦・稲四祭之時、仙香 根人、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。柴指之時、仙香 根人、花米九合・五水五合・神酒壱 百姓。芋祭之時、仙香 根人、蕃薯二器・神酒弍・肴 二器百姓、供之。瀬底巫・根人祭祀也。』との記述があります。 (石嘉波のニードゥクル/根所) (ニードゥクルヒヌカン/根所火神) (ニードゥクルヒヌカン/根所火神に向かって右側) (石嘉波神社改築記念碑) 「石嘉波の神アサギ」の東側に隣接した位置に「石嘉波のニードゥクル/根所」があります。この赤瓦屋根の建物内部には「ニードゥクルヒヌカン/根所火神」と呼ばれる霊石が3体祀られており、ウコール(香炉)・湯呑・花瓶・徳利が設置されています。「琉球国由来記」には『根所火神 石嘉波村 麦・稲穂祭之時、仙香 根人、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。同大祭之時、仙香 根人、花米五合宛・神酒弍 百姓。竈廻之時、仙香 根人、花米五合・神酒壱 百姓。ミヤ種子之時、仙香 根人、花米五合・五水三合 百姓。アラザウリ・向ザウリノ時、仙香 根人、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。畔払之時、仙香 根人、花米五合・五水三合 百姓。山留ニ竹木伐故、為作物祈願之時、仙香 根人、花米九合・神酒壱 百姓、供之。瀬底巫・根神・根人祭祀也。』と記されています。また「ニードゥクル」の建物に向かって右側には「石嘉波神社改築記念碑」が2基建てられています。 (石嘉波乃嶽/タキサン) (石嘉波乃嶽/タキサンの石碑) (石嘉波乃嶽/タキサンの古墓) (石嘉波乃嶽/タキサンのニジリヌカミ) 「石嘉波のニードゥクル」の南東側一帯は「タキサン」と呼ばれる森があります。この森に「石嘉波乃嶽」の祠と鳥居が建立され、地元住民からは「ジンジャ」の名称で親しまれています。「石嘉波村/イッチャファ」の祭祀は神役と「カミー」という行事の世話役が中心となり「ニードゥクル」や「石嘉波乃嶽/タキサン」で執り行われます。「石嘉波村」の旧家は大きく分けて「上間家/屋号ウチバラドゥンチ」と「金城家/屋号ペーキルンチ」があります。「上間家」は「ウチバラ/ウチバラドゥンチ」と呼ばれ「石嘉波村」の最上位の旧家で「ニーヤ/根屋」であると考えられています。「金城家」は「尚敬王」の時代の1736年に「瀬底島」に移り住んだ長い歴史を持っています。「石嘉波村」には「上間・金城・知念・宮里・玉城」の姓がありますが「金城」が最も多く「金城門中」が最大の門中であると言われ「石嘉波大屋子」は「金城家」から自出したと伝わっています。 (石嘉波乃嶽の祠) (石嘉波乃嶽の祠内部/向かって中央) (石嘉波乃嶽の祠内部/向かって右側) (石嘉波乃嶽の祠内部/向かって左側) 「石嘉波乃嶽」は「琉球国由来記」に記されている『前之嶽 神名 マツノワカツカサノ御イベ 石嘉波村』に相当すると考えられ『麦・稲穂祭之時、仙香 根人、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。同大祭之時、仙香・花米 百姓、神酒二宛 百姓。ミヤ種子之時、仙香 根人、花米五合・五水三合 百姓。山留ニ竹木伐故、為作物折願之時、仙香 巫、花米五合・神酒一・肴一器 百姓。供之。瀬底巫祭祀也。』との記述があります。「石嘉波乃嶽」では旧暦5月の「ウフウガン/大御願」の際に豊作・村人の健康・村の繁栄が祈願され、米・酒三合瓶・二合瓶・線香二十束・半紙が供えられます。旧暦7月18日から23日に執り行われる「シヌグイ」は年間最大の儀礼で、悪風祓い・村の繁栄・豊作祈願が行われます。20日の「ウークイ」は神女中心の儀礼で一般女性の参加も多く見られ、22日の「ハンジャレートゥ」は男神役中心の儀礼で一般男性が多く参加します。因みに、これらの一般の村人は家族の健康祈願のために参加すると言われています。 (アンチ御嶽) (アンチ御嶽の祠) (アンチ御嶽/安全守神の石碑) (アンチ御嶽の巨岩) (アンチ御嶽/巨岩のウコール) 「アンチ御嶽」は「瀬底島」入り口の表玄関である「アンチ浜」西側の岩の上に位置しています。「瀬底大橋」の付け根の北側にあり、御嶽周辺は巨岩で覆われています。「アンチ御嶽」のコンクリート造りの祠は前面が閉じられた古墓の型をしており、内部には厨子甕が納められていると言われています。航海安全を祈願する旧暦1月2日の「ハチウクシー/初起し」や旧暦5・9月の「ウフウガン/大御願」で拝まれます。離島である「瀬底島」は「本部町」がある本島との往来は「トゥケーワタイ」と呼ばれ、特に注意を払って島民は神に祈りました。この「アンチ御嶽」は島民の航海安全を祈願する御嶽として昔から拝されてきました。御嶽の下方には「浜番屋」が置かれ、明治末年頃から「瀬底島」の「岸本家」が島の渡し守りをしていたと伝わります。「アンチ御嶽」の祠に向かって右側には「安全守神」と刻まれた石碑が建立されており、現在でも石造りウコール(香炉)には多数の線香が供えられています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.07.07 13:41:02
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