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カテゴリ:南風原町
(かすりの道の標識/琉球かすり会館) 沖縄本島南部の「南風原町/はえばるちょう」に「ティーラ/照屋・チャン/喜屋武・ムトゥブ/本部」の「サンカ/三箇」と呼ばれる3つの集落を巡る「かすりの道」があり「かすりロード」とも呼ばれています。「かすり/絣」とは染め抜かれた経糸(たていと)と緯糸(よこいと)が織りなす図柄の"かすれ"から「かすり」と呼ばれています。身の回りの動植物や生活道具、さらに自然界から着想を得て巧みに反映されています。「かすり」の技術は14〜15世紀に沖縄が東南アジアの国々と交易をしていた頃、インド発祥の「かすり」がインドネシアやフィリピン、中国などを経由して沖縄に伝わったと言われています。 (トゥイグヮー) (カキジュー) (イチチマルグムー) (ブリブサー) 「トゥイグヮー」は鳥(トゥイ)を模った「かすり」で、曲線は同じ長さに染められた緯絣(よこがすり)を両手で左右にずらしながら織る「幅小寄/ハバグヮーユイ」や「手寄/ティユイ」と呼ばれる技法で織られています。「カキジュー」は鍋や道具を吊るして掛ける道具の紋様となっています。このような沖縄の生活に密着した道具をモチーフにしたかすりのデザインが豊富にあります。「イチチマルグムー」は緯絣2本ごとに絣の無い緯糸1本を織り、ぼかして5つの丸い雲を表現した紋様となっています。「ブリブサー」は夜空に輝く星団を経絣と緯絣の重なりで地色との対比を強調して群星を表現しています。 (トゥイグヮー) (絣糸の張り伸ばし場) (絣糸の張り伸ばし場) (絣糸の張り伸ばし場) 親子で飛ぶ「鳥小/トゥイグヮー」は琉球絣の中で最も多く用いられる緯絣の紋様として知られています。海外から沖縄に伝わった「かすり」は琉球王府を通じて薩摩に渡り、そこから日本全国各地へと広がって行きました。「南風原」で特に琉球絣が盛んになったのは大正時代の頃で、南風原尋常小学校に織物を指導する女子補習学校が併設され、熊本県出身の「金森市六」が絣技術を指導しました。退職後は「宮平・山川」で織物工場を経営して南風原の織物産業の発展に貢献しました。その功績もあり、現在では「南風原町」は琉球絣の最大の産地となっています。「かすりの道」沿いには絣糸の張り伸ばし場が点在しており、周辺住民の生活の一部として集落の風景に自然に溶け込んでいます。 (経緯絣/たてよこがすり) (ハナアシー) (ミミチキトーニー) (ビックー) (ピーマの絡み合わせ) 「経緯絣/たてよこがすり」は機(はた)に似た絣と2つの四角は経絣と緯絣が重なり地色との対比を強調し、絣全体がバランスよく配置してあります。「ハナアシー」は経絣3筋の切れ間に緯絣3筋を織り併せ、花の形を2つ段違いに並べた紋様です。「ミミチキトーニー」は耳つき(ミミチキ)の四角い容器(トーニー)の事で、芋洗いの箱・動物の餌箱・湯船などを表し、小絣が2つの耳のように付いている紋様となっています。「ビックー」は六角形の中に花をあしらった吉祥紋様で、織幅に並ぶ鼈甲が小さく、その数が多いほど長寿を願う気持ちが込められています。「ピーマ」と呼ばれる緯糸の絣だけで描く左右もしくは上下対象のが複数合わさり、抽象的な模様や具象的な波や小動物などを表現しています。 (ヒチアーシ) (絣模様の外壁) (琉球かすり会館) (かすりの道の標識) 「ヒチアーシ」と呼ばれる道具は、経絣用に整形した糸の束を図案通りに柄を合わせて固定するために使われます。「琉球かすり」の大きな特徴はおよそ600種という多彩な幾何学模様の図柄で、琉球王府時代から伝わる『御絵図帳』をもとに職人が現代の感覚を取り入れながら進化し続けています。織は緯糸を経糸の間に手投げ杼で織る昔ながらの技法で丹念に織り上げて行きます。また「南風原町」の童歌に『ティーラ チャン ムトゥブ (照屋 喜屋武 本部)』があり、3つの村は鼎(かなえ)のように向き合い、互いのムラの娘さん達が揃って布織りの自慢話や布織り競争をする唄が伝えられています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.12.06 06:21:20
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