海面に浮かぶ霊石を祀った無人小島@沖縄市「泡瀬ビジュル/泡瀬集落」
(泡瀬ビジュル/境内)沖縄県沖縄市「泡瀬集落」は沖縄本島の東海岸沿いの中城湾に位置しています。「泡瀬」はその昔「あせ島」や「あわす小離」と称され「高原村」より東におよそ九町の位置の臨海に突出した無人の小島で、自然に形成された砂州と南西に広がる豊かな干潟を有していました。1768年頃、読谷山間切の在番役を退役した「樊氏高江州(筑登之親雲上)義正」は、初期の移住者として入植し、広い砂州と干潟を開墾して農耕の傍ら塩を焚き安住の地ここに定めました。ある日、漁猟に出た高江州義正は海面に浮かぶ霊石(ビジュル)を見つけて持ち帰り、霊験が著しいビジュル神として島の西側磯のほとりに石祠を建てて安置し信心しました。これが沖縄に伝わるビジュル神信仰の始まりだと伝わっています。旧暦の9月9日には「ビジュル参り」の例祭があり無病息災、子安、子授けなどの祈願する参拝者が多数訪れます。(泡瀬ビジュル/一の鳥居)(泡瀬ビジュル/手水鉢/手水舎)(泡瀬ビジュル/二の鳥居)(泡瀬ビジュル/社殿)「一の鳥居」が向かって東側に「社殿」が建てられ、鳥居をくぐると右側に「絵馬掛所」があり、左側には「手水鉢」と「手水舎」が設置されています。この「社殿」は桁行一間(1,822mm)、梁間一間半(2,800mm)、高さ約12尺(3.940mm)の一間社流造り、鉄筋コンクリート造り、人造石洗出し仕上げです。鉄筋コンクリート造りでは難しい屋根ね曲線や円柱、梁、桁、貫、斗、垂木などを丁寧に仕上げています。昭和13年(1938年)に旧石の祠を改修し社殿、二基の鳥居、灯籠、手水鉢、内外玉垣を鉄筋コンクリート造りで建立されました。改修された当時の建築技術を知る上で貴重な資料となっています。(社殿裏側のビジュル石)(社殿北西側の改築寄附者芳名の石柱)(泡瀬ビジュルのアコウ)「社殿」の北側裏には11個のビジュル(霊石)が祀られています。16羅漢の一つの賓頭盧(びんずる)がなまり「ビジュル」と呼ばれています。また「社殿」北西側の角に「改築寄附者芳名」の石柱が建てられています。石柱には寄付金の額と寄付者の氏名が彫られています。また「泡瀬ビジュル」の敷地内には沖縄市の名木「アコウ」が育ち、推定樹齢は150年、樹高8.3m、幹周8.5mです。台風で塩を被ると落葉し薄い赤茶の皮を剥ぎ新芽を出します。沖縄の方言で「アコーギ」や「ウシクガジュマル」と呼ばれて親しまれています。(泡瀬ビジュル/千秋堂入口)(泡瀬ビジュル/千秋堂)(メーヌウタキ/前之御嶽)(上屋内部の石祠)無人の小島であった「泡瀬」の地に首里、那覇からの移住者が入植し、定住を始めたのが1768年頃と伝えられています。当時「泡瀬島」は美里間切高原村の属地でしたが、1903年(明治36年)に県令により高原村から分離され泡瀬村が創設されました。2003年(平成15年)の泡瀬村設立100周年を迎えるにあたり、その記念事業の一環として「泡瀬ビジュル」の社務所「千秋堂」が建立されました。「泡瀬ビジュル」の東側に「メーヌウタキ/前之御嶽」があります。琉球王国第二尚氏王朝の14代国王「尚穆王/しょうぼくおう」の時代(1768年頃)に首里、那覇から移住者が次第に増え集落を形成し島建てが始まりました。口碑によると「泡瀬」の小島の中ほどに石造りの祠を設え「繁昌の神」と称して尊信したのが「メーヌウタキ」の由来です。珊瑚石灰岩で建造された宝形造の石祠は200余年も雨風に耐え、現存する泡瀬の拝所の中でも最も古い石祠です。1997年(平成9年)12月に石祠を雨風から保護する為に上屋が築かれました。(火之神/御三物)(ウブガー/産井泉)「メーヌウタキ」の東側に隣接する場所に「火之神/ヒヌカン」があり「御三物/ウミンチムン」とも呼ばれています。「火之神」は古来から家々の竃に祀られる神で、後世は家を守る神として尊信されました。その後、門中の神、村の神、間切の神、更に「尚真王」代より首里王府の最高官「聞得大君加奈志/チフィジンカナシ」が琉球王国の最高守護神となりました。旧暦12月24日に「火之神」の昇天を送り、翌年の旧暦1月4日に再び「火之神」を迎えれる「火之神祭」があります。また「火之神」の敷地に隣接して「ウブガー/産井泉」があります。「ウブガー」は「泡瀬集落」形成の初期(1768年)に飲料用水の井戸として自然の湧き水を利用して造られました。飲料水だけでなく出産時の産湯用の水を汲んだり、正月元旦の若水を汲んだりするカー(井泉)でもありました。「ウブガー」は古くから集落の原井泉(ムートガー)として人々から大切に崇められてきたと伝わります。(ミーガー/新井泉)(東之御嶽/アガリヌウタキ)「泡瀬集落」の東の「泡瀬ビジュル通り」沿いに「ミーガー/新井泉」があります。「ミーガー」は昔、野良仕事や漁の帰りに使用されていたと伝わります。戦後「泡瀬集落」全体が米軍施設に接収され井泉の原型は消滅してしまいましたが、集落の返還後「ミーガー」は以前とは位置形状を異にして「東之御嶽/アガリヌウタキ」の敷地内に新装併置されました。さらに「ミーガー」の東側に隣接して「東之御嶽(アガリヌウタキ)」の拝所があり、石祠にはウコール(香炉)が祀られています。世持神(ユームチガミ)として「泡瀬集落」の東方、アダンの木が繁る砂丘に石灰石造りの石祠が設られ、理想郷であるニライカナイから豊穣と繁栄を招く神として崇められています。「東之御嶽」の敷地は御嶽庭(ウタキナー)と呼ばれ、およそ三千坪を有し子供達の遊び場や砂糖樽用の榑板(くれいた)や乾物の干し場、また村遊びの際の出し物の稽古場として集落の住民に親しまれました。(泡瀬遊び庭跡の碑)(泡瀬遊び庭跡)(泡瀬塩田跡之碑/ぐるくん公園)(泡瀬塩田跡/ぐるくん公園)「メーヌウタキ/前之御嶽」と「泡瀬漁港」の間に「イルカ公園」があり、この敷地はかつて「泡瀬遊び庭/アシビナー」として住民で賑わっていました。近隣の村々から農作物等を売りにくる青空市場、娯楽会場、村芝居、集会所、相撲競技まで催される村人の憩いの広場でした。沖縄戦では米軍の占領下で避難民収容所や食糧配給場として利用されましたが、後に避難民は現うるま市に強制移住させられ「遊び庭」は消滅してしました。返還後の1977年に「イルカ公園」として整備され、現在は公園の北側に「泡瀬遊び庭跡の碑」が建立されています。「泡瀬集落」の北部に「ぐるくん公園」があり「泡瀬塩田跡之碑」が建立されています。1767年頃に泡瀬の無人島に入植した移住者は農業のかたわら、南西砂州に続く干潟を開拓し「入浜式塩田/シンナー」を作り製塩業を興しました。廃藩置県(明治12年)を境に「泡瀬」の製塩業は県内一の生産量を誇る「アーシマース」は県下にその名を馳せました。(カーヌモー/川ノ毛)(カーヌモー/川ノ毛の拝所)「泡瀬集落」が規模や人口ともに増大するに伴い水量豊かな飲料水用のカー(井泉)が望まれていた矢先に「カーヌモー/川ノ毛」から湧水が堀り当てられました。この井泉はどんな旱魃でも水が枯れる事はなく、集落で唯一の共同井戸として「泡瀬集落」繁栄の象徴となったと言われています。1906年(明治39)に大規模な改修が行われ下層石積を新たに構築し、井戸の周辺には広大な芝生地帯の「カーヌモー/川ノ毛」を増設しました。また1923年(大正12)には上層の鉄筋コンクリート造りの屋根が築かれたと伝わっています。また1948年(昭和23)には「カーヌモー」に山積みされていた米軍のコールタール缶の火災により井戸の屋根は消失し崩壊してしまいましたが、1985年(昭和60)9月に復元され現在の姿に改築されました。井戸には水の神様を祀る拝所が設けられウコール(香炉)が設置され多くの参拝者が訪れています。(泡瀬ビジュル通り沿いのカミヤー/神屋)(竜宮神の祠)(竜宮神の祠内部)「泡瀬干潟」は干潟や藻場の広がりが南西諸島でも最大級であり干潟の生物(特に鳥類や、 貝類、海草、藻類)の貴重な生息地と生育地であることが知られています。そのため日本の環境省に「日本の重要湿地500」に選定されています。現在も「泡瀬」半島の最東端には米軍施設の「泡瀬通信施設」があり「泡瀬集落」の完全返還は進んでいません。更に「泡瀬干潟」埋め立て事業が進み豊かな生態系への悪影響も危惧されています。この「泡瀬干潟」に向かって米国海軍の通信施設に隣接する位置に「竜宮神」を祀る祠が建立されています。祠内部には「竜宮神」と刻まれた石碑に3基のウコール(香炉)と霊石が数個設置され、更に向かって左側には「寿海仙泪明君」と記された石碑に1基のウコールが祀られています。