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天猫の空小屋

天猫の空小屋

プロローグ2

ストレンジキッス/プロローグ

呼吸が速くなる。
 拍動が荒ぶって、目の前に紅い血潮が充満する。
「はぁ、はぁ」
 白い、自分の手。
 その細く、綺麗な柔肉を引き裂きたい。
 血が噴出し、私の顔を私の血で紅く染め上げ、そして―――。
「っつ!がっ!!はぁ、はぁ」
 しかし、鈍く光る刃の先はその肉に沈むことはない。
 からん。
 手元から刃が滑り落ちた。
 その音に安堵したかのように私は崩れ落ち、手元のシャープペンシルを引き寄せる。

 カチカチカチカチ

 一心不乱に芯を出す。

 カチカチカチカチカ・・・

 やがて、芯は一本だけ膝の上に落ち、私をそれを貪り食う。
「はぁ、はぁ、・・・ぁあ!!」
 その一本を瞬く間に租借した私は、シャーペンを放り出して変え芯入れを手に取る。

 足りない。全然たりない。

 ぼりぼりぼり。

 何かが頬を流れ落ちたが構っている暇はない。
 早く、早く終わらせないと。
 ぼりぼりぼりぼり!

 変え芯入れが空っぽになる頃、私の身体はおかしくなる。
 アレだけ体中を苛んでいた痛みが消え、頭の中は自分の肉のことではなく彼のことでいっぱいになる。
 自然と、笑みがこぼれた。
「はは、あはは」
 手を見ると震えも止まり、アレだけ白かった皮膚には赤みが浮かんでいる。

 これで今日も彼に会える。

 とんとん。

 扉が叩かれる。そして、私は笑顔で告げるのだ。

「こんにちは。 今日も来てくれたんだね」


 部室で彼と二人の時間を過ごす。
 何をするでもない、ただ二人でいる。
 私はちらちらと彼のほうを盗み見る。彼は本を読んでいることが多くて、大抵は難しそうな小説だった。

「別に難しくはないよ。古文というわけではないんだし」

 そう言って彼は、武者小路実篤の『友情』をぺらぺらと捲る。
 私が訊いたら、嬉しそうに粗筋を語ってくれたが、私は彼に合わせて作り笑いをするたびに心を痛める。
 よくは分からなかったが、どうも三角関係のお話らしく、しかも世間ではどう言われているかは知らないにしろ、私には到底ハッピーエンドには思えなかった。
 友情。恋愛。愛情。
 私はそれには縁がない。否、分からない。
 今もこうして彼を想う気持ちすら、何処から来るものなのか分からない。
 彼に見えないように拳を握った。
 手の皮膚に爪が食い込み、さらに力を入れると、ぷつと血が流れた。
 そうして、私は彼に微笑む。

 彼。
 名前は速見晃平。私の名前が彼の名前の漢字に入っているところなんかが、なんでもないことなのに、たまらなく愛おしい。
 背は高くて、たぶん170cm後半。もしかしたら180cmに届いているかもしれない。
 髪はスポーツ刈りよりは少し長くて、柔らかそうな色合いだ。
 童顔と呼んでもいいだろうか。彼の顔はまだまだ幼さを残していた。そんな彼の顔はひどく憂いでいて、そんなところに私の心はどきりとしてしまう。
 
「よかったら、あなたも食べますか?」

 これが、私が彼と交わした最初の言葉。
 彼は呆気にとられていて、実際に私は、彼に幽霊か妖怪と思われることを望んでいた。
 彼が男だったから。
 もう二度とここに、私と彼女の安息の地に、彼が近づかないように。
 しかし、彼は今日もここを訪れる。
 興味本位ではない。なぜか、『私』に会いに来てくれる。
 心の中で彼女に謝った。
 これは彼女に対する裏切りではないのか?
 何故彼女はここに来てくれない?
 あの日、私が嬉しそうに『彼』のことを話したからなのだろうか?

 分からない。自分も、彼女も、もちろん彼も。全部、全部分からない。
 ただ、私は残酷にも、彼を知りたいと想うのだ。あの憂いた表情の奥底を。
 神様。
 信じてすらいないものに縋るほど、私は自分を恥じている。
 誰か、誰か、誰でもいい。私を―――。
 しかし、私の頭に浮かんだのは彼女ではなかった。
 
 私は、そうして彼に微笑んだ。


 ―――これは、私と彼の、今日の見えない物語―――



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