夫が求めた天国とは「心のふるさと」
September 19, 2017 ブログの最後に死に逝く人は自己の魂の落ち着き場所をどこに求めるのでしょう。 又、遺されるものは愛する者の魂の居場所をどこに落ち着けようとするのでしょうか。と書きました。私たちの場合を綴りながら、死生観に触れてみることにします。若い頃からの私の愛読書「星の王子さま」を朗読し、声を遺してほしいと夫に頼んでおりました。そのために夫は前もって「星の王子さま」を読みました。その時に綴った夫のレターの一節です。「星の王子さま」を読んでいると自然と涙ぐんでしまうと言っていましたが私もなぜかしら最後の方を読んでいうちにへんに哀しい泣きたいような気持ちになりました。私も亡くなったら星のひとつに帰ることになるのだろうか、そしてmawakoを見守り、mawakoが星を見上げることになる?しかし、私はそれを望まない、私はmawakoの胸の中に生き続けるつもりです。そうすることによってmawakoの生活を応援し続けていきたい。見守り続け良き道を示してあげたいと思う。 死と隣り合わせに夫と共に生きたのは7カ月と23日間(余命告知後)でした。夫は早い時点で死を受け入れていました。それは「生死は人智の及ばざるところなり」「必ず人間は死するものである」との生命に対する諦観が根底にありました。「自分がこのような情況(余命告知)に追い込まれていることを理不尽に思ったり、自分の運命を呪ったりする気持ちはツユほどもありません。妻と二人、幸せな生活を送れたこと、それを想えば今の状態を潔く受け入れることができるのです」と言い、「いつか訪れる」だろう病を覚悟し、癌に倒れても「来るべきものが来た」と落ち着いた心境で受け止めることができたと語りました。そのような夫は死そのものへの恐怖、死後の魂の拠り所に対する不安を訴えたことがありませんでした。彼が一番恐れたのは癌の激痛がもたらす脅威(’恐怖)でした。それは、激痛で命が絶たれることはありませんが、精神が壊れる人格崩壊の脅威(恐怖)でした。激痛に耐え、ひたすら自己が壊れていくことを必死で食い止めようとする夫の姿でした。このような極限状態の中で、自己の魂の落ち着き場所を妻の胸中に求めました。それは二人にとってはすでに当然のことで、若い時からそれぞれの死後の魂は「伴侶の中に生き続ける」という想いを持ち続けていました。死後の魂が寄り集まるところ、そこが天国だと言います。宇宙の遥か彼方にある天国、そこに住む魂は星になり風になり雪となり、光の中にその魂を宿し、私たちの身近に舞い降りてきて私たちの感性を揺さぶり、愛する者との交信を行う。その交信によって死者の魂と触れ合い、私たちは心の平安と勇気をもらいます。しかし、夫は大宇宙の遥か彼方にある天国ではなく、最も身近な伴侶の胸中こそ天国であるといい、私も同感でした。なぜ、そこが天国なのか? そこが「心のふるさと」だからです。「心のふるさと」が妻(夫)であることと妻(夫)が「心のふるさとである」とは必ずしも一致、イコールとは限りません。私たちは幸いにして私(妻)の「心のふるさとは夫」であり通しました。そして夫もまた私(妻)が夫の「心のふるさと」でした。夫は自分自身の「心のふるさと」に魂の居場所を定めたのです。「心のふるさと」・・・・・伴侶がそれぞれの「心のふるさと」であることの幸せ。この世のご夫婦の多くは屹度同じ想いなのだと思います。いかがですか。図書館へ行く度に、学生時代によくデートした公園を散歩します。お濠端のウオーキングロードではなく、春には満開でにぎわう桜の小道を歩きます。桜の小道の続きは赤松林が連なります。時々、マラソンの若者が追い抜いていきます。「頭上のカラスに注意」の立て札のところはちょっと緊張して松の天辺を見上げます。綺麗に刈り込んだ樹木はドウダンツツジ、ほんの少し紅葉の気配が始まりました。今日は心地良い春のようなそよ風、水鳥も楽しそうですがカメラに映ったのはは1羽だけでした。陽の光りがキラキラと揺れる川面に映り、まるで花びらを散らしたように綺麗でした。日本ブログ村ランキング参加中です。 にほんブログ村にほんブログ村 いつもご訪問いただきありがとうございます。