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2005年08月23日
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カテゴリ:カテゴリ未分類


まずは金融王モルガン財閥について、次のサイトを最終話まで読んで笑っときましょう。

モルガン財閥
http://potato9.hokkai.net/~rekiparo/morugan/


● ジーメンス

情報通信大手に富士通という会社がありますが、富士通の「フジ」は「富士山」の意味ではなく、語源は、富士電機製造(現在の富士電機)にあります。富士電機製造の電話部所管業務を分離して設立されたのが富士通信機製造株式会社(富士通)です。富士電機製造は、古河財閥とジーメンス社の合弁で設立(1923)されました。ですから、古河の「ふ」とジーメンスの「じ」という頭文字をとって富士になったわけです(なんの役にも立たないトリビア的マメ知識ですw)。したがって現在の富士通にはジーメンスの血液が流れています。

語源探偵団
http://www.dik.co.jp/seken/GOGEN/fiji2.html

ジーメンスとはドイツ最大の総合電機メーカーのことですが、これはファミリーの名前であり、創業者はウェルナー・ジーメンス(Ernst Werner von Siemens)と機械工のヨハン・ハルスケ(Johann Georg Halske)の共同で、そこにウェルナーの従兄ゲオルクが投資するかたちで加わって「ジーメンス・ウント・ハルスケ電信製造所」つまり現在のジーメンス社が設立(1847)されたのが始まりになります。

ウェルナーの弟ウィルヘルム(ウィリアム。ドイツ名でCarl Wilhelm Siemens)は、英国でジーメンス・ブラザーズを設立し、その後、電信技術学会の会長や鉄鋼協会の会長を務めるなどして有力な地位を築きあげ、英国に帰化していたウィリアムはナイトの称号を得ました。

現在のジーメンスの当主格とみられるフォン・ジーメンスなど総勢100人以上と言われるジーメンス・ファミリーは、直接的か財団などを通じてジーメンス社の株式を1割ほど所有しているものと見られているので、ジーメンス社に対する影響力は、かなり大きいはずです。

ウェルナー・ジーメンスの従兄であるゲオルク・ジーメンスは、“ドイツ株式会社”の心臓部であるドイツ銀行の設立者でした。こういった関係も影響したからか、ジーメンスのメインバンクはドイツ銀行でした。




フランクフルトにあるドイツ銀行の本拠

ニューヨークのJPモルガンはロックフェラーのチェース・マンハッタン銀行と合併してJPモルガン・チェースとなりましたが、ロンドンのモルガン・グレンフェルはドイツ銀行に買収されました。さらにドイツ銀行は、98年にバンカーズ・トラスト(旧JPモルガン商会)まで買収しました。したがって現在のドイツ銀行は、強力なモルガンの細胞が入り込んでいることになります。(96年には信託銀行であるチェース・マンハッタン信託銀行も買収しています)

「モルガン商会は銀行ではない。アメリカの国家であり、アメリカの法律であり、アメリカの制度である」

【ドイツ銀行】1870年ゲオルク・ジーメンスが設立→1990年代までにドイツの全産業を支配→1980年モルガン・グレンフェルを買収→1998年バンカーズ・トラストを買収(実質的なロスチャイルド・モルガン連合に変貌)。


2004年にはドイツ銀行のヨゼフ・アッカーマン会長(現・ドイツ銀行取締役会会長兼グループ経営執行委員会会長)とシティグループのチャールズ・プリンスCEOが両社の合併について協議した。このときドイツのシュレーダー首相は、ドイツ銀行のシティグループへの売却を承諾していた(結果は破談)。2005年、モルガン・スタンレーの“内戦”が起こったとき、フィリップ・パーセルCEOと対立した人たちはモルガン・スタンレーを退社し、ドイツ銀行へ流れた(結果的にはバーゼルCEOの退職で決着)。


以下、ドイツ銀行のサイトから「ドイツ銀行の歴史」を紹介します。



ドイツ銀行のはじまり

ドイツ銀行が設立された1870年、ドイツの銀行業界は大きな過渡期を迎えていました。産業化の進展にともない産業育成のための融資の必要性が急速に高まり、伝統的な銀行業務に対して新しい時代の要請に応えることが求められたのです。

ベルリンには、進取の精神でこうした時代の変化に立ち向かおうとしていた個人銀行家が存在しました。その代表的な人物がアーデルベルト・デルブリュック、ドイツ銀行の「真の創始者」です。


ドイツ銀行は1870年1月22日にその設立を承認され、同年3月10日にはプロシア政府から銀行業を営む免許を受けました。これは同政府が共同出資銀行に出した最後の認可となり、同年、認可制度は廃止されました。

ドイツ銀行は設立当初より国際業務を重視していました。「当行の目的は、幅広い銀行業務を営むこと、特にドイツとその他のヨーロッパ諸国間および海外市場との取引を促進し、容易にすることです。」なかでも、当時、ドイツの貿易取引の決済業務で他を圧倒していた英国の銀行への挑戦が直接的な目的でした。ドイツ銀行は1871年から73年の間に、ブレーメン、横浜、上海、ハンブルク、ロンドンの5つの支店を開設しました。


ドイツ銀行という名称には、「ドイツと諸外国間の取引を支援するため、幅広い銀行ビジネスを推進する」という創業者たちの思いが込められています。しかしながら実際には、海外との取引にかかわる銀行業務はさほど浸透せず、設立間もないドイツ銀行は、他の業務に活路を見出すことになります。

ドイツ銀行は創業初年度より、「現金」による預金の受け付けを始めました。今日ではあたりまえのこの業務も、130年以上も前のドイツ銀行業界にあっては、画期的なことでした。ドイツ銀行は預金取り扱い業務に安定的な経営基盤を見出したのです。設立当初、2人で構成されていた取締役会メンバーの一人であり、ドイツ銀行の歴史上欠くことができない存在であるゲオルク・フォン・ジーメンスは、同業務の拡充に力を注ぎ、ドイツ銀行の資本基盤を強化しただけでなく、同業務がドイツ国内でビジネスとして確立するうえで大きな役割を果たしました。

草創期の成長

ドイツ銀行は設立当初、ベルリンのフランツォジッシェ通り21番地にあるごくありふれたビルの1階にオフィスを構えていました。

1年ほどで、総勢50名ほどの社員はベルリン証券取引所の近くに移転しました。1876年には、ベーレン通り、マオアー通り、フランツォジッシェ通りの3つの通りの交差点に、新しい本社ビルの建設を開始。新社屋を結ぶ「2つの橋」の景観をもつこの建物は、のちにドイツ銀行のシンボルとなりました。


ドイツ銀行は、設立後数十年で急速に業務を拡大しました。1880年代に企業の発起・設立にかかわる業務の重要性が高まり、1890年代にはその速度が加速していきました。こうしたなか、ドイツ銀行は、ドイツにおける電機重工業の進展や鉄鋼業の基盤確立に大きな役割を果たしました。国内において経営基盤を安定させたドイツ銀行は、国際業務にも取り組み、バグダッド鉄道建設にかかわるプロジェクトなど、その後何年にもおよぶ取引を遂行しました。


20世紀を迎えて 本格的な支店ネットワークの構築

ドイツ銀行は1890年代後半、新たな拡大期を迎えました。大手地方銀行との提携を進めることで、ドイツの主要産業地帯への足がかりを築きました。しかし、合併による集中と再編が進んでいた当時のドイツの銀行業界にあって、ドイツ銀行は独自の支店網を急速に拡大するには到りませんでした。1886年のフランクフルト支店、1892年のミュンヘン支店に続き、1901年にライプツィヒとドレスデンに支店を開設しました。


一方、諸外国との取引促進を支援することの価値をいち早く見据えていたドイツ銀行は、1886年、外務省の働きかけを受け、ドイチェン・ユーバーゼーイッシェン銀行を設立しました。さらに3年後の1889年には、新設されたドイチェ-アズィアーティッシェン銀行に資本参加もおこなっています。


フランクフルター新聞が「ドイツ銀行は世界最大の銀行」と報じた矢先の1914年春、躍進を続けていたドイツ銀行に転機が訪れました。第一次世界大戦の勃発により、それまで成功へと前進していた勢いは衰え、大戦後には、銀行業界を取り巻く環境は大きく変化していました。ドイツを激しいインフレが襲い、ビジネスの回復には程遠い状況でした。

第一次大戦直後は、清算の時代でした。海外資産の大半を失い、その他の保有資産も売却を余儀なくされた戦後期。こうしたなかにあっても、その後長期にわたって大きな影響をもたらす新しいビジネスが生まれました。ドイツ銀行は、映画制作会社ウファの設立およびダイムラーとベンツの合併に大きな役割を果たしました。

最強のライバルとの合併

ドイツの銀行業界における集中と再編の動きは1920年代も続き、1929年、ドイツ銀行とその最大のライバルであったディスコント-ゲーゼルシャフトの合併でピークを迎えました。その後8年間にわたり、「ドイチェ・バンク・ウント・ディスコント-ゲーゼルシャフト」の名称で業務をおこなったこのドイツ最大の銀行は、1937年になって「ドイツ銀行」に名称を戻しました。

両行による合併の背景には、コスト負担の増加と銀行業界で進んでいた集中への動きがありました。ドイツ金融業界で数十年間にわたって最大の出来事となった両行の合併は、世界経済と銀行業界が直面していた危機を緩和するうえで絶好のタイミングでおこなわれたと言えます。


流動性の不足に加え、短期外国債務の存在、借り手側の返済能力の欠如、さらには硬直的な政府機関の介入によって、ドイツ銀行業界は20世紀最大の破滅的状況を迎えていました。戦前の「黄金時代」はすでに遠い記憶となり、銀行業界全体が国家権力に服従する時代が1945年以降まで続きます。

ナチス政権下のドイツ銀行

ヒトラーが政権を握った1933年、ドイツ銀行にとって暗黒の時代が始まりました。この後、12年間におよぶナチス政権のもとで、ドイツ銀行は奈落の底に落ち、大きく翻弄されることになります。当時の当行主要メンバーは、国家社会主義のイデオロギーに賛同したわけではないものの、1931年の銀行恐慌の後遺症とも言える無力感とナチス政権下の反銀行主義の強い影響を受け、何ら抵抗することなく人種差別的政策に迎合していきます。新政権によってユダヤ人と見なされた3人の取締役会役員は、1934年までに職を追われ、唯一残っていた監査役会役員も1938年にはその地位を失いました。



※ 文字数がオーバーしたので、続きは以下で。

ドイツ銀行の歴史
http://blog.livedoor.jp/ayaka222a/archives/50029151.html







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最終更新日  2005年08月23日 00時27分11秒
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